魏・晋の武将。
父は陳矯といい、曹操から直々に招聘を受けたほどの政治家。
陳騫は若い時から度量と胆力に優れたとされ、父が曹叡から疎まれた時に兄は皇帝に嫌われる一大事にうろたえるばかりであったが、陳騫は父を励ましたと伝わる。
魏では副官的な役割に留まり、司馬懿・司馬師政権では兄が重臣であったのに対し陳騫は一介の文官止まり。
司馬昭の時代になってようやく侯となり出世し、将軍として蜀・呉の征伐などに関わり活躍。
あくまで武人然とした人物であったため政争には関わらなかったが、あの賈充も彼の能力と胆力は認めていたという。
また無骨者そのものな性分ゆえか、魏の時代には文学好きの皇帝・曹髦の前で美しい詩が作れず免官されかかったりもしている。
人物を見る目もあったらしく、都督揚州諸軍事についていた頃に
「牽弘と胡烈は勇猛だが思慮分別に欠けるので、刺史としては使えない」と司馬炎に進言したものの却下されたことがある。
後日この二人は任地で異民族との戦いの末戦死しており、司馬炎は陳騫の話を聞いておけば良かったと後悔したという。