段熲、皇甫規(皇甫嵩の伯父)と共に涼州出身で異民族との戦いで名を馳せ「涼州三明」と呼ばれた武将。
後述の『蒼天航路』で名を知られるようになったと思われるが、史実では黄巾の乱より前に死亡している。
ちなみに弘農に移住した後に曹操の祖父・曹騰の推挙を受けており、史実で曹家と全く接点がなかったわけではない。
并州討伐で董卓を従えていたが、董卓の性格を嫌い董卓からの贈り物を受け取らなかったという。
西方の将として勇名を馳せていたが、官臣と宦官の間で政争が激しくなっていった最中、遠征からの凱旋で都に戻った際、朝廷の事情もわからぬまま、宦官である中常侍・曹節に唆されて、大将軍・竇武を撃退した上に太傅・陳蕃を捕縛、獄死に追い込んでしまう。
後日、朝廷の内情を知ったものの時はすでに遅し。
当時、朝廷の権益を壟断しようとしていた宦官に与する者と見られるようになると、これを恥じて昇進を返上し外征などの軍事活動を固辞するようになった。
のち、大規模な弾圧政策である第二次党錮の禁が進められると、かつて自らが攻めた竇武、陳蕃の関係者を弁護したが却下され、後漢王朝の政治はさらに混乱の度合いを増していくことになる。
『蒼天航路』では、党錮の禁について調査を進めていた曹操に諭され、曹操に仕えるようになる。
その後黄巾の乱まで生きるが、張曼成と壮絶な一騎討ちの果てに敗れ戦死している。
(ただし最期の一撃で張曼成の片足を切り落とし、夏侯惇が張曼成を討ち取る手助けをしている)