後漢〜魏に仕えた政治家。
容姿と動作に優れ、文章作成を得意としていたという。
16歳で小役人になるとその後は郡の高官を歴任するほどトントン拍子に出世を重ね、
孝廉に推挙される、県令として長安周辺で随一の治績を挙げる、曹操からも直々に声がかかる、と大いに名を上げている。
長安の西側を主に担当していたため、特に雍州・涼州方面の治安維持において活躍が目覚ましく、
二度に渡る高幹の反乱鎮圧、馬騰の懐柔、馬超の反乱撃退、全てに関わり重要な役割をこなしている。
やがて曹操が魏王になると雍州刺史にまで上り、善政を布きながら張魯や劉備と渡り合い、実質的な独立状態にあった豪族や異民族たちにも対処。
曹丕の時代にはカード裏の通り「張既でなければ涼州は治められない」とまで言われ、その統治の評判は非常に良かったという。
小役人時代の上司であり、張既を鞭打った事もあったという徐英とはあまり仲が良くなかったが、
張既は以前の恨みを忘れて交流を結ぼうと努め、徐英もまた自身より遥かに出世した張既を認めながらも過度にへりくだることなく、
共にその態度を大いに讃えられたと伝わる。