鮮卑の一部族である拓跋部の大人(部族長)。拓跋が姓・氏族、力微が名。
後には中華北部に広大な勢力圏を築き上げ独立王朝を建てる拓跋部であるが、後漢〜三国時代はまだ影が薄い。
それもそのはず、拓跋部について具体的な記録が残っているのはこの拓跋力微の代からなのである。
先代の拓跋詰汾が天女との間に授かった子が拓跋力微であるとの伝承もあるほど、拓跋部の間では伝説的な人物とされた。
他部族の侵略に遭い部族が離散してしまったため、没鹿回部の族長・竇賓に従って各地を転戦。
ある戦いに敗れた際、竇賓が馬を失い徒歩で逃げる羽目になったため、力微は自分の乗っていた駿馬を竇賓に差し出した。
この甲斐あって無事逃げ延びた竇賓は、馬を差し出した者に褒美を与えようとしたが、力微は名乗り出ようとしなかった。
竇賓は後にこのことを知ると、領地の半分を与えてでも恩に報いたいと思うようになり、娘を力微に嫁がせ、拠点も与え、拓跋部の復興を認めた。
名望と人徳を轟かせた力微の元に、かつて離散した人々は再び集まった。
竇賓は息子に拓跋力微に仕えるよう遺言して死去するが、遺族は従わず、竇賓の葬儀を利用して力微暗殺を企んだ。
しかし力微は見抜いており、先手を打って竇賓の妻を暗殺。続いて息子たちも処刑し、竇賓の勢力を併呑した。
こうして20万の兵力を擁する大勢力となった拓跋部は、魏との友好を結ぶべく力微の長男・拓跋沙漠汗を洛陽に送った。
やがて魏は禅譲によって滅び晋が建国されるが、拓跋部との友好は維持された…かのように見えた。
晋との友好を深めるべく、沙漠汗は貢物を持って再度洛陽を訪れたが、拓跋部の勢力を恐れる衛瓘の陰謀にはまってしまう。
衛瓘は沙漠汗を洛陽に留め、その間に拓跋部の有力者に賄賂を贈って懐柔した。
帰国した沙漠汗を待っていたのは、すっかり耄碌してしまった父・力微と、衛瓘の息がかかった有力者たち。
有力者たちは沙漠汗に民を苦しめる反乱の兆しありと讒言し、力微もこれを信じ込んでしまったため、有力者たちは沙漠汗を殺害。
長男を死に至らしめてしまった力微は大いに後悔し、やがて病に倒れるが、その軍勢を任された烏丸王にも衛瓘の手が回っていたため、拓跋部は再び衰退してしまった。
拓跋力微はほどなく死去。享年は記録の通りであればなんと104歳とされる。
その後の拓跋部は、十数年をかけて力微の末子・拓跋禄官の代に復興。
晋との関係も修復しており、改めて行われた拓跋沙漠汗の葬儀には晋からも使者が参列した。
やがて3世紀末には魏(中国史上では北魏と呼ばれる)王朝を建て、拓跋部は150年に渡る治世と繁栄を築き上げることとなるが、
国号を魏とした由来は、始祖とされる拓跋力微が三国時代の魏と友好を結んだことだという。