人物紹介 / 太史慈


太史慈

甘寧・周泰・丁奉らと共に孫呉の猛将として知られる人物。
孫策と互角の一騎打ちを繰り広げたという逸話は正史にも記され、演義ではさらに曹操軍の張遼とも打ち合っている。
その鮮烈な印象から、ファンの間では甘寧と並び、孫権軍の個人武勇最強候補とも言われる。

また武勇一辺倒でもなく、正史では知恵が回り機転の利く一面も見せている。
21歳の時、東萊郡と青州の間でトラブルが発生し、朝廷の裁決を仰ぐ事態になると東萊郡の使者を務めたことがある。
しかし青州側の使者に先を越されそうになったため、相手の上章文を騙し取って破棄すると、
「俺たち二人して処罰されるぞ」と言って一緒に逃げるふりをして、ちゃっかり洛陽に戻り東萊郡の上章文を朝廷に渡している。
(後に許劭に酷評された一因は、この悪知恵としか言えない一件が知れ渡ったことであるらしい)
またこの時に恩を受けた孔融の拠点が黄巾残党に包囲されると、援軍の使者に任命され、
毎日城外に出て黄巾賊の前で弓の訓練を繰り返し、油断するようになったところで囲みを抜けて劉備のもとに到着したという。
兵法三十六計の一つ「瞞天過海(まんてんかかい)」(天を瞞いて海を過る。相手にやるぞやるぞと見せかけて行動せず、油断した所で行動に移す。偽退却の計などが主な使い道)を説明する際に引き合いに出される事が多いエピソードである。

横山三国志では、赤壁後の合肥攻めで、自身の策略を逆計されて針鼠にされる最期で有名だが、
正史では合肥攻めどころか、赤壁の戦いにも従軍していない。その前に病死している。
また演義ベースの創作では友情と忠義の男として描かれることも多いが、
正史ではその武勇と豪腕に見合うだけの野心を内に秘めていたようで、臨終の際に
「大丈夫たるもの、七尺の剣を帯びて天子の階に登るべきものを、志を果たさず死ぬのは無念だ」
と言ったとされている。つまり、皇帝になりたかったと死に際に吐露していたのだ。
この言葉は撤退時のセリフ「大丈夫たるものが!」の元かと思われる。

ちなみに正史においては弓が得意という意味で「臂(腕)が長い」という記述をされている。
演義における劉備や馬超の表現と似通っているが、少なくとも馬超は強弓で鳴らしていてもおかしくはない。
演義では実際に弓の腕を披露する場面もあり、これを踏まえてか、三国志大戦シリーズでは蜀の黄忠に匹敵するほど弓兵での出演が多い人物。
特に「レア・コスト2・武力8・中知力・勇猛持ち」で各ナンバリング初期から登場するという形が定着しているが、
計略の方は1・2では超絶強化、3では部隊の召喚、今作では弓性能強化とまちまちだったりする。

Menu

最新の20件

2024-04-15 2024-04-05 2024-04-03 2024-04-02 2024-03-25 2024-03-15 2024-03-14 2024-02-22 2024-02-15 2024-02-14 2024-02-13 2024-01-26 2024-01-25 2024-01-19 2024-01-09 2023-12-06 2023-11-26

今日の13件

  • counter: 9957
  • today: 1
  • yesterday: 2
  • online: 13