人物紹介 / 曹叡


曹叡

曹丕の長男にして魏王朝の二代目皇帝。諡は「明帝」。

彼が成人した頃には生母・甄氏は曹丕からの寵愛が薄れていたためか、太子に立てられていなかった。
曹丕が病で重体に陥るとようやく太子に立てられ、曹丕が崩御すると皇帝位を継ぐ。
また一説には、ある日曹丕と共に狩りに出て親子の鹿が現れると、曹丕が親鹿を射殺した後に子鹿を射るよう言われるが、
陛下がすでに母を殺したというのに、私はその上で子を殺すに忍びません
と、自らの境遇を重ねて拒否したことで評価され、太子に立てられたとも言われる。

剛毅果断にして軍事に積極的で、諸葛亮の存命時には、蜀の第一次北伐に対応して守りを固めるべく長安まで親征したという。
また、呉に対しても合肥の守備を放棄して寿春で呉を迎え撃つという満寵の献策を却下して合肥へ自ら赴こうとするが、
これは本人が到着する前に呉軍が撤退してしまっている。
諸葛亮没後はさすがに自ら前線に赴くことはなくなったが、
公孫淵の増長に対して群臣の反対を押しきり討伐を決意、司馬懿に全権を委ねて早期征討に成功したり、
蜀の廖化が攻め寄せた際に守将・郭淮の戦術を不安視し、果たして曹叡の悪い予感通り郭淮は部下を戦死させる大敗を喫するなど、
中央にいながらその軍才はしばしば最前線の武官をも上回り、祖父・曹操に匹敵するとまで評し称える者もいた。

しかしその信念の強さと果断な性分は、剛直・頑固で独断に走りがちという側面を合わせ持ち、
諸葛亮が没して蜀の侵攻が減り内政に力を注げるようになると、
群臣の反対を押し切って宮殿を豪華に増築・改築する大がかりな土木工事を何度となく行い国庫を疲弊させたり
(この工事についてはただの奢侈ではなく、民を潤わせて経済を回すための公共事業であった、不安定な三国時代にあって正統王朝の権威を誇示する狙いがあった、などと指摘する声もある)、
かつて父が甄氏を殺したのを再現するかのように、当時皇后だった毛氏を死に至らしめたりしている。
(さらに偶然にも、寵愛の移った妃の名字も父の時と同じく郭である。)
また清談高論や人物評価で名声を得ていた夏侯玄らを「中身の伴わぬ人物」として激しく嫌い免職にしており、
この時に臣下に言った言葉が『画餅(絵に描いた餅)』の語源となったとも伝わっている。

病に倒れて危篤に陥ると、養子にしていた曹芳を太子とし、曹爽と司馬懿を後見に指名して崩御。
享年は36歳とも34歳とも言われており、前者ならば204年生まれ(甄氏が曹丕の妻となった年)になるため、 実は袁煕の子だったのではないかという疑惑も浮上している。

その人物評は賛否両論が激しく、陳寿は
「冷静沈着にして剛胆、決断力と見識を併せ持ち、全てを自らの意志に従って行動した。君主たるに相応しい気概の持ち主であった」
「まずは広大な版図の復興を成すべきであったのに、俄かに秦の始皇帝や漢の武帝の後を追うかのように宮殿の造営を行った事は致命的失態」
とその功罪両面を記している。

父・曹丕からの扱いに反し、曹操からは嫡孫として大いに可愛がられ、その才気と容貌から「我が帝業を継ぐ者」とまで言われていたとも。

当時の日本にあった邪馬台国の女王・卑弥呼が朝貢の使者を送った当時の皇帝でもある。