人物紹介 / 徐盛


徐盛

元々は徐州の出身だったが、戦乱を避けて呉に移り住む。
若い頃から義に篤く勇猛果敢にして度胸に溢れることで知られていたとされる。
孫策が死んで孫権が跡を継いだ頃に仕え、兵500を預けられて対黄祖の最前線に配属されていた。

武官としては早くから評判以上の才覚を見せ、黄射(黄祖の子)が数千の兵で攻め寄せた時はわずか200弱の寡兵で撃退。
10倍以上の敵軍に突撃して壊走させたこともあるという武勇のみならず知略戦術にも優れ、
後の曹丕との戦では数百里に及ぶハリボテの城壁を築いて追い払うといった機転も見せている。
最前線での数々の華々しい活躍だけでなく山越対策でも功績を挙げており、トントン拍子に出世している。

一方で武人らしい剛胆さ・誇り高さゆえに味方との軋轢も恐れない一面があったのか、濡須口では家柄の低い周泰が上官になるとその指示を拒否する、蒋欽の部下を勝手に処罰してしまおうとする、といった逸話も知られる。
孫権が周泰の全身の傷を見せた、蒋欽が私情を捨てて徐盛の実力を認め賞賛した、といった経緯があってからは、徐盛も彼らに敬意を表し従うようになっている。

徐盛の度胸と誇り高さで最も知られるのは曹丕即位直後の逸話か。
カード裏にも「国を思って涙する」と書かれる一件は、孫権が魏皇帝となった曹丕から呉王の位を受け取る時のこと。
これは(形式上とはいえ)呉が魏の傘下に入るという意味に他ならず、魏からの使者はその立場をカサに着て孫権に対し傲岸不遜な態度をとった。
当然のように張昭ら群臣が腹を立てる中、徐盛は堂々と一歩進み出て
「これだけ命を懸けて国に尽くしてきたのに、我々の努力が足りないばかりに主君に臣下の礼を取らせてしまった」
と絶叫し号泣。
使者もさすがに感服し、「呉はいつまでも魏の下についてはいないだろう」と予感したという。
その後、蜀との同盟が安定して魏の言う事を聞かなくなった呉に対して曹休や曹丕が攻め寄せるが、これらの戦いで徐盛は鬱憤を晴らすかのごとく大活躍している。

徐盛は229年までに没したとされるが、229年は孫権が皇帝に即位した年でもある。
あれだけのことを言い放った徐盛が、孫権の即位をギリギリ見られずに死去したと思うとなかなか切ない。

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