正史では旧名を「徐福」といい、単家(権勢のない家柄)の出身であったことから演義では当初「単福」という偽名を名乗っている。
劉備に諸葛亮の存在を教えたのは正史、演義とも共通するのだが、
演義では曹操に捕まった母親の手紙(実際は程昱の手による偽物)を受け取ったことで劉備の元を去る時に教えたのに対して、
正史では三顧の礼の後も劉備軍にいたのだが、曹操との戦い(長坂の戦い?)で敗れて母親が捕虜になったため曹操に降っている。
演義では「曹操のために献策することはない」として赤壁の後は話の表舞台から姿を消しているのだが、
正史においては前述の通り家柄が低いため(門閥主義の魏では)出世したくてもできなかったという事情もあるようだ。
事実、諸葛亮が北伐時に魏の使者から徐庶の近況を聞いて官位の低さに驚いたという逸話が知られている。