魏の政治家、将軍。蜀と呉に仕えた諸葛亮・諸葛瑾兄弟とは遠い縁戚。
仕官した際に、「蜀は竜(諸葛亮)を得て、呉は虎(諸葛瑾)を得て、魏は狗を得た」と言われた。
日本でのイメージだと竜や虎と比べてあまりに低い評価に見え、吉川英治も「酷評にすぎる」と書いているが、
ここでいう狗とは「功狗」すなわち功を立てる者・人の役に立つ者という意味の賞賛であり、事実その名声は魏だけでなく蜀・呉でも高かったという。
朝廷でも順調に出世したが、仲間うちでお互いに高い評価をしていたことが魏帝・曹叡の不興を買い、
「名声は画に描いた餅のようなもので、飢えを満たすことはできない」と批判され免職された。
※故事成語の画餅はこれが由来である。
娘が司馬懿の四男(司馬師・司馬昭の異母弟)・司馬伷に嫁いでおり、司馬一族とは親交があり、その縁で復帰した。
毌丘倹と文欽が反乱を起こすと司馬師に従って従軍している。
司馬一族が魏の権力を握った後、彼らの政敵と親しかった者らが次々と消されていく中で自分の立場を危惧し、
民に施しを与え、私兵を養い、朝廷にも呉に備えるため軍備増強を要求するなどの行動をとり始める。
そして司馬昭の時代に、洛陽への召喚命令をきっかけに十数万の兵を率いて反乱を起こす。
さらに呉軍数万が諸葛誕への増援として到着し、対する司馬昭は26万の軍を動員する大規模な戦争となった。
しかしこの戦の途中で文鴦が司馬昭に対してまさかの降伏。しかも司馬昭はそれを許したため諸葛誕の軍は動揺したところを攻められてしまう。
この戦いで諸葛誕は戦死し、首は洛陽に送られた。
「諸葛公の為に死ぬのなら命は惜しくない」と最期まで抵抗した兵が数百人もいたという。