人物紹介 / 士燮


士燮

中華圏としては南の果てにあたる交州に独立勢力を築いた名君。
政治・統治だけでなく外交にも優れ、その存命中は呉の侵攻を許さなかった。
また王允と同年代でありながら、孫権が呉王に封じられた数年後まで生きていたという長生きでもある。

若い頃は洛陽で学問を修め、父の死後に茂才に推挙され故郷である交州に赴任する。
先任の交州刺史が異民族に殺害されると、士壱ら一族の者を要所に配置して勢力を拡大する。
もっとも本人は交州以外の領土欲を持たず、交州を手中に収めた後はその防衛と維持に努めていた。
南方の貿易ルートを抑えていたことで収入も多く、それを元手に善政を敷いていたことで評価も高く、それでいて漢王朝へも律儀に従い多くの貢物を捧げていたという。
また戦乱と縁遠い地となったため許靖や劉巴といった名士らが避難してくることもあり、士燮は彼らを通じて三国の情報を得ていたとされる。

交州はそのような要所であったため孫権も支配地におさめたい場所であったのだが、先手を打って子の一人である士廞を人質に差し出して臣従し、呉にも貢物を送って交州を戦場とさせなかった。
こうして自身の生前には孫呉も交州へ攻め込むことができなかったのである。
しかし士燮の卓越した政治能力は子の士徽には受け継がれず、士徽は呉の強硬的な政策に誘発される形で反乱を起こして処刑され、士家の交州統治は終焉を迎えてしまう。

交州は現在で言うベトナム北部も含まれているため、その名はベトナム史上にも残り、かつてはベトナム北部の正当な統治者として「士王」の敬称で呼ばれ讃えられていたという。
没後にはベトナム・中国の両方で民間伝承が残されたほど伝説的な統治者であったが、現在は両国の政治的事情により、その治績は悲しくも歴史の闇に埋もれようとしている。

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