演義では傅士仁の名で知られている武将。名前が陸景の字と同じになってしまっている。
どうも資治通鑑で「将軍傅士仁守公安」とあり、傅は従者の意もあるのだがそれを人名として解し、
それが三国志演義、そうあの蜀びいきの三国志演義でも引かれたために誤解が定着したようだ。
劉備に仕えた時期は定かではないが、幽州の出身であるため遅くとも公孫瓚の客将時代には仕えていたものと思われる。
関羽が荊州を治めていた頃、公安城の守将として南郡太守の麋芳と共に荊州の守備を務めていた。
しかし関羽との折り合いは悪く、ついには城内で失火を犯したことを責められ処罰まで言い渡されたことで麋芳共々不安を感じる。
呉軍が荊州へ攻め込むと虞翻が降伏の使者として訪れるも当初は拒否するが、虞翻が手紙で呉軍だけでなく関羽の脅威も伝えた上、
すでに公安城が包囲されている状態だったことから涙ながらに降伏する。
その後は呂蒙と共に南郡へ赴き、麋芳を降伏させた。
正史では呉に仕えてからの事績は書かれていないが、演義では夷陵の戦いに際して麋芳と共謀し、
馬忠の首級を手土産に再び蜀へ降ろうとするが、かえって劉備を激怒させてしまい、麋芳ともども関興に斬られている。