魏将・胡遵の子にして胡奮の弟、胡淵の父。胡芳の叔父。
諸葛誕の乱では呉将・朱異の守る兵糧を焼き討ちにし、兵糧不足による撤退に追い込んでいる。
蜀征伐戦では鍾会軍の先鋒として傅僉を討ち取って陽安関を占領した他、姜維が降伏する際書状を受け取っている。
姜維と鍾会が反乱を起こすと幽閉されるが、自身の元へ差し入れを持ってきた部下に
「鍾会は大穴を掘り、棒を数千本用意し、よその兵を順番に棒で殴り殺して、穴に投げ込むつもりらしい」と偽情報を流し、混乱したところで立ち上がった胡淵らが鍾会を殺害したことで難を逃れている。
その後は対呉戦線でも活躍し、襄陽太守、荊州刺史を歴任している。
しかし陳騫からは「牽弘と胡烈は勇猛だが思慮分別に欠けるので、刺史としては使えない」と評されており、最後は秦州刺史を務め西方の異民族対策に当たっていたが、樹機能の反乱により討ち取られてしまった。