袁尚配下の武将。
袁尚に仕える以前の経歴は記録にないが、恐らくは袁紹に従っていたものと思われる。
鍾繇の甥、正確には鍾繇の姉の子であったとされるが、郭援の父については特に記録が見当たらない。
袁紹が没すると、曹操は袁譚と袁尚の争いに乗じて河北征伐を再開。
これに対し袁尚は、匈奴に反乱を起こさせて曹操軍の背後を攪乱、そして高幹と郭援に兵数万を預け出撃させた。
しかし袁家に味方しようとしていた馬騰が、鍾繇の命令を受けた張既と傅幹に懐柔され曹操側についたため、
高幹と郭援は鍾繇の救援に駆けつけた馬超・龐徳と交戦することになってしまう。
汾水にまで到着した郭援は周囲の制止を聞かず渡河作戦を強行するが、
これは郭援の性格を熟知する鍾繇に見抜かれていたため、全軍を渡河させる前に馬超・龐徳らの攻撃を受ける。
それでも郭援は乱戦の中で馬超を負傷させるほどの武勇を見せるが、龐徳に斬られ戦死した。