夏侯淵の末子。
「弁舌さわやかで才気に満ちている」と評される。
夏侯一族ではあるが司馬懿のクーデター後も夏侯覇のように亡命せず魏に仕え続けており、司馬昭の左司馬まで昇進している。
蜀の滅亡時は使者として成都に赴くが、鍾会が反乱を起こしたのでこれに抵抗している。
晋の時代になって、司馬炎が病気で重体に陥り後継者問題が立ち上がると、
暗愚な太子・司馬衷よりも聡明な斉王・司馬攸が次の皇帝にふさわしいのではないかという話が出てきたため、
賈充に「あなたは娘を太子と斉王に嫁がせていますが、どちらが次の皇帝にふさわしいでしょうね?」と質問したという。
この発言が後日回復した司馬炎に警戒され、降格処分を食らっている。