人物紹介 / 王濬


王濬

晋の武将。
カード裏の通り、人生最大の見せ場を迎える呉征伐の時にすでに70歳を超えていたという老将で、
その生年はまだ魏王朝すら成立していない206年とされる。

若い頃は魏に仕えていたことになるのだが、当時の王濬に関する記述はほとんどなく、
代々二千石(郡太守)の家柄であり、容姿に優れ経理に明るかったが、名声を求めなかったため有力者の目に留まらず世に出なかった、と伝わる程度。
後に出世の志を持つようになると中央に招聘され、当時司隷校尉を務めていた徐邈の娘を嫁にもらっている。

晋の時代になると王濬は対呉最前線の総司令である羊祜の配下となり、信頼・厚遇された。
「王濬は志は大きいが奢侈で節義が無く、専任すべきではない」と諫言されることもあったが、
羊祜は王濬の実力が必要だと考えていたため全く取り合わなかったという。
果たして羊祜の見込み通り、益州の郡太守に抜擢されると、善政を布いて民心を掴み、反乱鎮圧や異民族懐柔にも大活躍。
これらの功績により中央の要職に任じられるが、王濬は現場でこそ輝く奇略の持ち主と見込んでいた羊祜は、
密かに上奏して王濬を益州に呼び戻している。

武人らしく性格面は強硬・強引・性急なところがあり、
呉征伐の準備に当たっては近隣の山河を祀る松柏を「無礼である」として伐採・押収して軍船の資材に充て、
それでも足りなくなると墳墓に植えられている松柏までも買い取って突貫工事を続けたという。

またかつて「奢侈で節義が無い」と評されたように、人格面ではお世辞にも問題がないとは言えなかったようで、
孫晧を降す際に王渾の指示を無視して独断に走った上に、それを悪びれることもなく大功を誇り続けたため王渾とは深刻な不仲となる。
また「孫歆を討ち取った」と報告を盛り(実際には周旨が孫歆を捕縛している)、後から生きた孫歆が護送されてきたため朝廷の笑い者になったりもしている。
王濬はその後もしばしば不平不満や暴言を吐き散らし、司馬炎は功績を顧みて黙認していたが、
部下から「平呉の功は聖主(司馬炎)の徳や諸将の力あってのものであり、あなたが誇ることではない」と指摘され、
刎頸の交で知られる廉頗・藺相如の故事も持ち出して諫められたため、鄧艾の二の舞になる事も危惧して以後は慎むようになったという。

後世、唐の時代には「武廟六十四将」の一人に名を連ねている。
三国〜晋代で列されている他の名将たちがあまりに大物揃いなため、今の日本でのイメージでは少し場違いに見えるかもしれないが、
少なくともその後の中国においては武人としてかなり評価の高い人物だったようである。

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