「孫権の側室の王夫人」は二人いるので非常に紛らわしい。同じ字を書くため孫堅と孫権以上の紛らわしさである。
フレーバーテキストに「孫和の母」とあるので、大懿皇后と諡された方である。
さいわい出身地は異なるため、こちらは琅邪の王夫人という区別もできる。
皇后位を追号されたのは孫に当たる孫皓が即位してからのこと。
呉の皇帝は孫権→孫亮(孫権の七男)→孫休(六男)→孫晧(三男孫和の子)と交代したので
孫休の母であるもう一人の王夫人(敬懐皇后)よりも追号されたのは後となる。
孫権にもっとも寵愛された側室は歩夫人とされるが、その次にくる寵姫がこの王夫人だったという。
平素から歩夫人の娘である大虎(孫魯班)に憎まれていたそうで、おそらくは歩夫人の地位を奪いかねない政敵として攻撃を受けた模様。