人物紹介 / トウ艾


鄧艾

魏の将軍。初名は鄧範、字を士則。後に鄧艾、字を士載と名乗ったとされる。
若い頃は吃音であったため軽んじられ、後に都に使者として赴いた時に司馬懿に見出されて取り立てられた。
彼が吃音であったことは唐代の人々の間でも知られていたようで、唐の李商隠が詠んだ詩の中でも、

「(自分の子供が客人が帰った後に)その客が髭面ならば「張飛みたいだった」とたわむれ、その客が吃音だったら「鄧艾みたいだった」と笑っていた」

という意味を持つ一節が出てくる。
(唐代にはまだ正史「三国志」は格調高い歴史書で、知識人やそれなりの地位のある人間でないと読めなかったという背景もあるのだが)

劉禅を降伏させ蜀漢に引導を渡した男として有名だが、それ以前にも反乱鎮圧や軍政で活躍。
若い頃から地理マニアで、高い山や広い沼地などを見かけると必ず、軍営の設置を想定した測量を行っていたという。
周囲の者には嘲笑されたが、司馬懿に取り立てられ対呉戦線にあたる寿春方面の視察を行うと、
この経験を基に『済河論』という論文を書き、農地を肥やし大軍の運用を容易にする水路・運河の重要性を説いた。
司馬懿はこれを採用し、いつでも軍勢を長江に送り込める大運河を完成させる。これが後の晋による呉攻略の礎となった事は言うまでもない。

その後、毋丘倹・文欽の反乱から北伐阻止・蜀平定までの華々しい活躍はよく知られる通り。
「地の利」を何より重んじる、三国時代の幕切れを飾るに相応しい知将であったと言える。

しかし性格面にはかなりの難があったようで、
若い頃には軽んじられ貧しい生活を送る鄧艾とその一家に父が手厚い援助を行ったことがあったが、全く礼を言わなかった(ただし礼を言えなかったのは吃音のせいとも言われており、援助してくれた相手の家族へ恩返しもちゃんと行なっている)。
また蜀を平定するとその功を鼻にかけ、特に蜀の士大夫たちに高慢な言動を連発したため嘲笑・敬遠されたという。
鄧艾は蜀滅亡後も成都に駐屯し、勢いのまま呉を滅ぼそうと司馬昭に様々な策を上奏。
司馬昭は「独断に走るな」と注意したが鄧艾は従わなかったため、鍾会らによって反逆者の烙印を押されてしまうこととなった。
鄧艾は罪人として都に送られることとなり、かつての部下たちに助けられて一度は脱走するものの追撃を受け、子の鄧忠ともども討死してしまった。

その性格難とそれ故の政治的孤立は、後に段灼が彼の名誉回復を司馬炎に歎願したが、その上奏文ですら
「鄧艾は強情でせっかちな性格でして、名士や俗人どもの気持ちを軽々しく踏みにじり、そのために誰も彼を弁護してやろうとしなかったのです」
と冒頭で述べられているほどの有様である。

豚足が大好物であったと伝わり、
中国河南省商水県には今でも「鄧城葉氏猪蹄」なる豚足の煮込み料理が伝わり、河南省の無形文化遺産となっている。
何十種類もの伝統的な調味料やスパイスが醸し出すその複雑な味は、「毎日食べても飽きない」とまで言い伝えられているとか。

また、中国では吃音の人を励ますために鄧艾の立志伝を引き合いに出される事もあるという。

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