三人称の表現


□三人称の表現

■改行  

 ヘミングウェイの老人と海は、三人称で書き出しから結末まで定型に近い形で書かれています。

「サンチャゴ」少年は老人の名を呼んだ。 「うん?」老人は応えた。しかし彼は、グラスを手にしたまま、遠い昔のことを考えていた。 

 上の文章を分解してみると、サンチャゴと老人の名を呼ぶ少年の声。次に語り手の視点から説明が続く。そして呼ばれた老人の返事。後に語り手から彼の現在の様子と心理描写。少年の声、語り手の説明、老人の声、語り手の説明、老人の様子と心理の描写。 これは基本型と言ってよいでしょう。

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「駄目だ」老人は言った「おまえの船には運がついている。あの仲間を離れちゃいかん」 「でも覚えているだろう? 八十七日も不良が続いた後で、今度は三週間もの間、毎 日、でかい奴を何匹も釣ったことがあったじゃないか」  

 1番目の文章との違いは会話にあります。老人の会話が一度切れて語り手の説明を挟み、 それからまた老人の会話が続くのです。ここでなぜ会話を切るのでしょうか。 「駄目だ、おまえの船には運がついている。あの仲間を離れちゃいかん」と老人は言った。 というようになぜしなかったのかということです。これは前の文である「駄目だ」を単語として強調させるためであると思います。駄目だと言い切ることで、後ろに続く会話が流れないことからより読者に強く響くのです。

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 次に老人が小舟に乗り一人で居るときの場面。ここでは老人は話す相手がいないです。

「あいつ何か見つけたな」老人は独り言を言った「あれはただ探しているだけの飛び方じゃない」  
「やっぱり一廻りしただけなんだ」と彼はいった「今度こそ食うだろう」
「おい」老人は魚に向かってやさしく呼びかけた「おれは死ぬまでおまえにつき合ってやるからな」
「びんながだな」老人はつぶやいた「立派な餌になるわい。十ポンドはあるだろう」

   気がつくのは老人が声を発するときは、一言区切る場合が多いということです。区切る ということは先ほども書いたとおり、強調する時であるから、つまり物語の中では老人 が何か新しいことに気がついた時に声を発することが多いということになる。他にも 幾つかパターンが見られますが、要するに老人の感情に何かが働いた場合、言葉がでるという 我々が日常生活でごく普通にしていることのそれなのです。このことから小説には必然性が 要求されることが理解できます。

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