12,000〜16,000字,4月末?4月半ば締め切り。
文字数は15,000。300字程度のアブストラクトと同じく300字(二人ぶん)程度のプロフィールを含む。 4月14日(金)締め切り。
想定される読者は……
最初に流し込んでしまうと、これが初期値になって思っていた方向にはならない恐れがありますが、そこは本江さんを信じているので(笑)、まずは初期値として建築学会の論文の文章を流し込んでいます。
どんどんズタズタにしましょう(笑)-もとえ
「 一般的な背景」
インターネットの社会的な普及により、没場所性と没場所性を促進させる均質空間としての情報空間が実空間を覆い尽くすようになった。さらに携帯電話やノートパソコンなどをいつでもどこでも使えるようになり、あらゆる場所で情報を取得できるようになったことで、実空間と情報空間はレイヤー的に存在するものではなく、複雑に畳み込まれた空間となっていると言えるだろう。
テレビや電話などの情報通信技術は、鉄道や車などの交通技術ほどには建築・都市空間のかたちに変化を与えなかったかもしれないが、個人的で移動可能な情報機器は時間と空間の使い方・個と空間と場の関係性・人々の生活の構図に変化を及ぼしている。
「問題と思っている事柄」
形式知の流通の爆発的増加。形式知>>>暗黙知。知ってるつもり/分かったつもりな人の増殖。
本江さんの没場所への危機感。
「自分達の手法、戦術、戦略」
場所性を凋落せしめている主犯人のごとき「情報技術」を逆手にとって、場所性を回復する、場所へのコミットメントを回復することができるのではないか。
空間的な情報環境は、技術的な要素やシステムの構成は同じでも、その空間的なしつらえによって人との相互作用は大きく異なったものになる。
筆者らはそうした空間的な情報環境をデザインする際に、スケール・レイアウト・テクスチャなど空間を構成する要素を、情報システムを構成する要素と等価に扱いたいと考えている。「時間と空間をデザインすることで、情報システムの使い方が変わるか」「情報システムをデザインすることで、時間と空間の使い方が変わるか」ということに興味を抱きながら、リアルな素材とデジタルな素材の組み合わせ方を模索している。
それはとりもなおさず、前述した場所へのコミットメントの回復のためでもあり(?)、世界を新たな視点で発見する身体知と暗黙知の回復のためでもある。
リアルとデジタル、あちらとこちら、単に分けるのではなく、それらの解像度を上げることで、異なったものの中に等価な関係を見いだし、接続できる回路をつくること。
単に懐古主義的に場所性の回復を求めているのではなく、場所性と没場所性をマルチタスクに同時進行させつつ、複数の世界をつなげることができるような回路を設計しようとしている。(GoogleEarth?を見ながらトリノオリンピックを楽しむ元永二郎。)
様々なモードやチャンネルをスイッチするきっかけを実空間と情報空間に散りばめる。
本稿では、筆者らによる研究事例を述べる中でそうした事柄に言及しながら、これからの建築や都市の在り方/使い方についての考えを述べたいと思う。
携帯電話のアドレス帳は友人のリストがあいうえお順に並ぶのが一般的だが、携帯電話の位置情報を用いた動的な電話帳であるiCAMSでは、特定のグループ内のメンバがお互いの位置情報を知らせ合い、メンバーが位置の近い順に並び替えられる(図3左)。そして、各メンバのアドレスリスト(電話番号とメールアドレスの並び)も事前に設定しておくルールに従って、位置とスケジュールに応じて優先順位をつけて動的に並び替えられる(図3右)。その場の必要と状況に応じて対面・電話・メールのコミュニケーションチャンネルを切り替えるきっかけを提供することで、グループ内のコミュニケーションを円滑化することがシステムの目的であった。
異なるグループを対象とした運用実験から分かったことの一つは、グループが自由に使えるオープンスペースの有無や動き回るエリアの範囲の大きさによって、偶発的な対面コミュニケーションを持つ頻度に違いがあったことである[2]。このシステムにとっては建築・都市空間とがそれを使う敷地であるだけでなく、システムの使い方に影響を及ぼす要素であったと言えるだろう。
ここでは、実空間と情報空間が畳み込まれたグループの状況を携帯電話の小さな画面で俯瞰した後に、実空間もしくは情報空間における次のアクティビティを選ぶことになる。そこでは、異なる特性とスケールを持つ空間が入れ子構造になっていると考えられるが、実空間と情報システムのデザインが一体としてユーザのアクティビティに影響を及ぼすことになる。
「見知らぬカゾク」は、見知らぬ人同士でお互いの位置情報を共有し、新しい形のコミュニティをつくりだそうというプロジェクトです。
一般的に、同居している家族、普通の意味での「家族」であれば、なんとなくではあれ、お互いに今どこにいるかわかりあっていると思います。今日は部活で早く出かけたとか、バイトで遅いとか、出張で泊まりだとか。そこで何をしているかは具体的にはよく知らないけれども、どこにいるかはだいたい知っている。でも、知っているからといって、何をするでもない。じいちゃん今日も病院だ、と思う。それだけ。娘はまたバイトか、と思う。それだけ。
「同居」しながらも、実際には家でゆっくりとお互いの時間を共有する機会がとても少ない家族が増えている現在、こういった淡くて微妙な位 置情報の共有関係にこそ、家族と共に暮すこと、その絆の核心があるのではないでしょうか。
だとすれば逆に、位置情報を共有することによって、まったく見ず知らずの人間をあたかも「家族」のように感じることもできるのではないか、というのが「見知らぬ カゾク」のコンセプトです。
「見知らぬカゾク」は不特定のユーザを公募して行います。参加者は5〜7人程度の「カゾク」グループに分かれ、ハンドルネーム(ペンネーム)でお互いを認識することになります。
サーバが、メンバーの位置情報を取得して、グループごとにまとめ、それぞれのケータイにメールします。
位置情報の取得は朝(8時)、働いてる時間(14時)、アフター5(20時)の一日3回行われます。
しばらく続けていると、なんとなく、お互いの行動パターンが見えてくることになります。
全然動かない人、頻繁に移動する人、朝帰りの人、旅行してる人……
会ったことはないけど、お互いにどこにいたか知っているわけです。だからといって、新しい行動のトリガーにしたり、互いに連絡を取合うことはできません。ハンドルネームしか知らないから。ただどこにいるかを知っているだけ、という距離感。偶然、ものすごく近くにいたりすると、すごくドキドキする。
「見知らぬカゾク」は、そんなプロジェクトです。
見知らぬカゾク プロジェクト, 2000年 http://minken.net/kazoku/
1日に3回(8時・14時・20時)に位置情報を知らせ合う お互いの個人情報(名前やメールアドレス)は知らない:お互い誰かも知らない+連絡できない ただひたすら行動パターンを共有する
見知らぬカゾクは相手に対する背景知識がない 持続的に位置情報を送り合うことで、お互いの行動パターン:背景知識を自分で想像する 想像した背景知識と最新の位置情報から、その位置情報が持つ意味を「自分で」見いだす 「地名」が喚起する意味:地図でのプロットとの違い
そうした次の事例が、位置情報付きの写真を地図上で共有するためのシステムである時空間ポエマーである[5]。利用している技術や全体的な仕組みも目新しいものではないが、百枚や千枚といった単位の量の写真が投稿されるという前提の下に、地図を床面に大きく投影するという空間的な展示方法をとった。地図をグリッド状に区切り写真をリストとして保持してフェードイン・フェードアウトさせることで多くの写真を眺める空間的な閲覧インタフェースを提案した(図4)。
システム全体にまつわる要素を少しずつ変更しながら、六本木、多摩センター、仙台の一番町と卸町、恵比寿で運用実験を行った。分析的な比較検討は行っていないが、ユーザのアクティビティに影響を及ぼす要素と考えるようになったものは、床面ディスプレイのサイズとテクスチュアといった展示の空間的な要素、美術館などの閉じた場所か商店街などの開かれた場所に設置するかという床面ディスプレイの立地条件、認知度の高いWebサイトと成りうるかという情報空間の中の立地条件、であった。
ここでは、街の中を歩き回り写真として切り取った様々な発見をデータベースで非同期に共有すること、地図の上を歩きながら複数の人々が共有した写真を同期的に一緒に眺める、という二つの共有が異なる時間と異なるスケールの空間に入れ子構造的に折り畳まれている。
次に紹介するのはFace to faceというメディアアート作品である[4]。この作品は鑑賞者の横顔やぶれた顔など、システムが顔ではないと判断した顔の画像だけを撮影するヘンなカメラである(図2)。人の顔を探す画像処理技術を用いて、カメラが人の顔をある一定の時間の間認識した後、顔であると認識しなくなった瞬間の画像を撮影して保存する。ここでは、カメラが撮影をするタイミングとしての時間を操作した。
本作品は、自分自身を映し込む装置である鏡と自分以外の対象物を映し込む装置であるカメラの共通点と相違点がテーマであるが、いつも自分が見ているような自分と対峙した後に、普段は意識していない自分と対峙するという体験を提供したいと考えた。そのため、様々な表情が撮影された最新の画像20枚をカメラが置かれた奥の階段の壁面に投影した。移動の時間(空間)を挿入することで、二つの対峙の経験を異なる場としたいと考えた。また表示する画像を20枚としたのは、他者と自分の表情を共有する空間とすることで、見る見られるの関係をうみ出したいと思ったためである。
PCや携帯電話がいったんネットワークに接続されれば、それが何時であろうと何所であろうと同じ作業ができるため、没場所性と没時間性を増加させる。その時個人を包む空間はパーソナルに組み替え自由な空間へと変化していると言えるだろう。同じ電車の中で携帯電話でメールの返事を打っている人々は、同じ時空間を共有しながらも異なる情報/関心にアクセスしている「同床異夢」の状態にある。
それは公共空間では当然のことかもしれないが、モバイル機器と環境の普及によりどこでもその夢が他の夢とつながるようになった。さまざまな場所でユーザがiCAMSの画面を携帯電話で見ている時はそうした状態であり、異なる床にいる人々が情報を共有している「異床同夢」の状態にある。異床同夢の実現は、情報通信技術の大きな関心事のひとつであるが、iCAMSではお互いの位置情報と状況を共有することで、同じ床で同じ情報を共有する「同床同夢」の状態(対面コミュニケーション)へと移行するきっかけも提供していると言える。
時空間ポエマーの地図に向けて写真を投稿する人々は、異なる時間に街の様々な場所でメールを送信するので「異床異夢」の状態にある。データベースに共有された写真をPCから見る人々は「異床同夢」の状態にあるが、床面のディスプレイで写真を眺める人々は「同床同夢」である。データベースの構築と空間的な展示はそれらの状態を遷移させる回路を提供していると言えるだろう。
EnhancedWall?では、偶然にディスプレイの前を通る人々が情報をふと見ることに反応して動作するため、「同床異夢」の人々を「同床同夢」に移るきっかけを提供できるだろう。Face to faceでは、いつもとは異なる自分に気づくきっかけを与えるシステムに空間を挿入することで、個人の中に「異床異夢」を実現したと言えるかもしれない。
これまでに述べてきた事柄は新旧の技術を多様に組み合わせ、いかに新しい「場」を形成するかということであると考えられる。大阪万博開催当時に表明された磯崎新氏の「ソフト・アーキテクチュア」や丹下健三氏の「ソフトウェア・エンウ゛ァイロンメント」などの考え方にも見られる諸技術の統合としての本来の建築の原義というべきものでもあるだろう[1]。人を内包する情報環境としてのユビキタスコンピューティングの考え方は今始まったものでもなく、かたちとしてではなく状況の発生する場を実現する技術的な要素が具体的なものとなり始めたのだといえるかもしれない。ただその当時と大きく違うのは、コンピュータの数の増加、サイズや機能などの多様性、インターネットとモバイル技術の普及がもたらしたコミュニケーションの変化であろう。
様々なかたちと機能のコンピュータとネットワーク、データベースを使うことで、時間と空間を編集することができる。そうしたシステムを空間的な情報環境として構築するに際に、建築/都市の要素と情報システムの要素を等価に扱い統合的に設計することで、システムだけでなく空間や身体的な所作の意味が様々に立ち現れてくる。
また異なる空間どうしの関係性を構築することで、様々な床と夢が組み合わされた状態とそれらを遷移するきっかけや回路を実空間の中に散りばめることができると考えている。
そうした環境では、人々の物理的/身体的/空間的な認知能力を刺激するリアルな要素とデジタルな要素が畳み込まれた状態となり、ホワイトキューブに情報システムが投影された環境とは別のものと言えるだろう。そして、身体や空間が持つ意味を情報という光の下で浮かび上がらせてゆく必要がある。
そうした環境を「建築」と呼び得るのかどうか、空間なのか状況なのか場なのか、何は同じで何は違うのか、何を条件として何を解くべきなのか、といったことについてもまだまだ議論が必要だろう。しかしながら、情報技術がもたらした個と空間と場の関係性の変化と、実空間と情報空間が畳み込まれた空間としての新しい世界観は、建築の概念と時空間の使い方、ひいては空間のかたちにも影響を及ぼしてゆくに違いない。
□ ARCHITECTURE AS IDENTIFICATION OF PLACE
建築は抽象としてではなく生活そのものを扱うものである。その基礎的な力は、「場」を規定することにある。
「場」が「機能している」あいだは、われわれにとって世界は意義をもち、それらを通して物理的・心理的に世界を認識できる。他人のために、世界(またはその部分)を「場」に組織化することは、きわめて重要な建築の役割なのである。
人々は、周りの環境を「場」として組織化することによって理解する。「場」は、人間と世界との媒介である。椅子を「座るための場:として、そして説教壇を「立って説教する場」として認識する。
「場」が「建築」であるならば、「言語」は「意味」であるといえる。「意味」は「言語」によって生じ、「場」は「建築」から生じる。 建築することを学ぶことは、言語の使い方を学ぶことでもある。建築には、言語のように、状況に応じたことなる組み合わせと構成のパターンや配列がある。
場の規定
□ BASIC ELEMENTS OF ARCHITECTURE
建築の「基本要素」は、建築に作用する以下のような条件である。敷地、空間、重力、光、時間。 「場」は以下のようにさまざまな「基本要素」で規定できる。規定された範囲の敷地、壁、プラットホーム、柱、屋根、扉など。
これからは、「デザインで用いられる要素」について検討する。それらはレンガやモルタル、ガラスや木材など建物の物質的な材料ではなく、「建築構成上の要素」のことであり、それらが「場を規定する方法」を検討しておきたい。
□ MODIFIYING ELEMENTS OF ARCHITECTURE
光は建築に作用する「条件」であるが、また「要素」ともなりうる。建築を彫刻と考えれば、光によって認識され、その形態が認知される。もし建築を「場の認識」とするならば、人は「明るい場」と「暗い場」、「柔らかな場」、また強く明るい光や太陽によるきっきりとした影が落ちる「場」があることや、劇場のように光と影によって不均一に照らされていたり、微妙に変化しながら均一に照らされていたり、微妙に変化しながら均一に照らされている「場」があることなどを知ることができる。
□ PRIMITIVE PLACE TYPES
言語と同じように、建築は変化しつづける。「場の認識」としての言語も建築も、歴史の変遷や文化的変容に従って用いられることによって存在してきた。社会組織は進化し、生活における相対的な重要性に関する人々の信念も多様になる。それらを内包するための「場」もそうである。ある種の「場」は不要になり、新たな種類の「場」の必要性が顕在化し、はやりすたりを経て「場」同士のつながり(物理的そして電子的な)はより洗練されたものになる。
□ ARCHITECTURE MAKING FRAMES
建築は元来「絵画的」な構成のためにあるものではない(ときとして、そのように表現されることはあるが)。また、遠くの丘や戸口に立っている人に限定される構図でもない。建築の特質は、絵画の構図である2次元以上で、空間の次元を含むことは明らかである。時間の次元、生活のパターン、仕事、儀式などのより観念的で微妙な次元も含んでいる。また建築は、神を構図することも、死体を構図することもできるし、家族のペットさえも構図することができる。しかし、最も崇高な目的は生活を構図することである。
絵画の「構図」やテレビスクリーンの「構図」、コンピュータスクリーンやそこに映し出される「構図」などを通して世界を見ることにわれわれは慣らされている。これらは、「離れた場」を「構図」するので、それらが超現実的な建物で抽象性を構築することが議論の対象となる。たとえば、ワールドワイドウェッブは、物理的世界を再解釈し重層化する建築のあり方である。
「構図するもの」として建築を考えることは、それを「場の認識」として考えることの一部である。
Steve Harrison, Paul Dourish, Re-Place-ing Space: The Role of Place and Space in Collaborative Systems, CSCW’96, 1996, http://www.ics.uci.edu/~jpd/publications/place-paper.html