シカクいアタマをさらにシカクく


レッツ受験産業

受験産業花盛り。がんばれ罪もない小中学生。がんばれバカなインテリぶった親たち。というわけで(?)電車広告にも多いくだらない受験問題をこの僕が解いてみます。(いやいや、良問も多いんだけれどね)

「ジェンダーフリー(笑)」の観点から

http://www.nichinoken.co.jp/sikakumaru/mondai/sm_sh_0408.html

問題。ジェンダーフリーの観点から問題と思うものを一つあげ、何が問題だと思うか説明せよ

  1. 名簿順が男子が先で女子が後だ
  2. 児童会長は男子、副会長は女子と決められている
  3. 女子が黒いランドセルを買ったら「女のくせに」といわれた

俺的回答は

俺的回答は「2」とする。だが、決してジェンダーフリーの観点からではなく、単なる機会平等が失われている純粋な男女差別だから。「ジェンダーフリー(笑)の観点から」という意味では該当がない。っつうかジェンダーフリーなんつう似非科学の観点なんて知るか。

1は別にそういう順番だから。名前順になおしたところで、「アオヤマくんとヤマグチくんではなんでヤマグチ君の方が後なのよ。それって社会的差別じゃねぇ?」とか言い出す奴がいたら変だろ?それと一緒だ。ただそういう順番ってだけ。3にいたっては純粋に小学生の女子が黒いランドセルなら単純に変だ。

そもそも、今更腐れ「ジェンダーフリー」教師がいる女子中学校に入れさせたいと思う親っているのかね。気持ち悪い。しかも入試問題にしちゃおうっていうところが、ジェンダーフリーという偏った思想を広めようとする ことに必死になっている様子が見て取れる。本当にキショい。そんなジェンダーフリー教師にもおもねらなくてはならない受験産業って大変だな。がんばれ受験産業。

現実世界を見つめよ

http://www.nichinoken.co.jp/sikakumaru/mondai/sm_kc_0508.html

問題:学校と健太君ちの距離は400m。駅と健太君ちの距離は300m。駅と学校は何m離れているか。考えられるものを全て挙げよ。

  1. 100m
  2. 300m
  3. 500m
  4. 700m
  5. 900m

俺的回答

「考えられるものを全て挙げよ」とある。1〜4は当然なのだが、問題は5の「900m」という選択肢だ。「現実的に考えられるもの」と文脈から読み取れるから、健太君の家が200mの幅を取っていることも考えられる。都会でも腐れ金持ちならそのくらいの家を現実として所有していることがあるし、不自然ではない。だいたい、家だの駅だの学校だのってのは、現実世界では点ではありえないのだ。したがって、俺的回答は1〜5全てとなる。

この問題の解説文に「実際の世界では、与えられた数字を足したり、引いたりするだけで解決できることは少ないな。そんな当たり前のことにもう一度目を向けて欲しくてこの問題を出題しました。」だそうで、そこまで言うなら1〜5までを選択した生徒に当然点数を与えたのだろう。


所詮知っていないとダメなのね

http://www.nichinoken.co.jp/sikakumaru/mondai/sm_ri_0504.html

問題:砂地に行列を作って行き来しているアリの列の隙間を、太い棒で横切るように地面に線を引いたら、アリは右往左往して行列はとぎれた。なぜ、行き来できなくなったのか、あなたの考えを一つ書き、それを証明する実験を考え、考えが正しければどのような結果になるか。

俺的回答

「アリの性質を知らなくてもよい」というスタンスで出題しておきながら、実は知らないとどうにもならないという非常に意地悪な問題で、こういう問題を出さないと受験産業が成り立たなくなるから受験産業としてはありがたい出題である。おそらく、設問の通りに回答したところで、点数は与えられないであろう。たとえば僕の回答のように。

「行列を分断した太い棒は実は特別な棒であり、地面に線を引くとアリ間で密かに行われている交信を分断する力のある棒である。もしこの仮説が正しければ、別の棒で行列を分断したとしても行列はとぎれないであろう。」

僕は「僕の考え」を一つ示した。そして「必要な実験」を示し、「それが正しければどういう結果になるか」を示した。出題者の問いには完璧に回答している。

所詮、アリの性質を知っていないと点数にはならないのだ。そしてちなみに、太い棒で分断したところで、アリの行列は一瞬は乱されるものの、設問のように右往左往するということはない、ということも付け加えておく。 (よっぽどの太い棒なら別だけれど、挿絵にあるような奴なら、ってこと。)

受験産業は偏った思想が必要

http://www.nichinoken.co.jp/sikakumaru/mondai/sm_sh_0308.html

問題:合計特殊出生率は1950年の3.65から2000年には1.36と減っている。どのような社会にすれば女性が安心して子供を産める環境になりますか。あなたの考えを書きなさい

俺的回答(その1)

設問の前段「合計特殊出生率は50年で大幅に減った」ことと、後段の「2000年現在は女性が安心して子供を生める環境でない」ことは、まったく関連が無く、別個の文章であることに気が付くことが重要。もし関連があると仮定するならば、50年前は「女性が安心して子供を生める社会環境だった」という事になる。出生率と女性が安心して子供を生める社会環境の整備率と、相関関係にあるの?果たしてそうだったの?ねえジェンダーフリー思想におかされちゃった出題者さんよ?

素人確率統計にも書いた(かな?)けれども、唐突に「現在女性が安心して子供を生める環境にありません」と書くよりも、「出生率は3.65から1.36になりました。(すなわち)現在女性が安心して子供を生める環境にありません」と書いた方が、なんとなく裏付けがとれているような印象を与える事ができる。マスコミなんかがよくやる手なのだ。しょせん言っていることは「根拠はメンドクサイから省略するけれど、現在は女性が安心して子供を生めないのですよ」という事だけである。こういうことを読み取れるようにするのが教育だと思うのだが、どうやら現在の教育は違うみたい。

さて、出題者が確率統計を曲解したことを逆手に取れば、いとも簡単に俺的回答案(その1)はできあがる。

俺的回答案(その1):「50年前の社会に戻す」

だって50年前は安心して子供を生める環境だったんでしょ?

俺的回答(その2)

僕の言いたいことはこれだけにとどまらない。「女性が」安心して子供をうめる環境っていう言い方。子供は男女間(一般的には夫婦間)でつくるものであり、あえてここで「女性が」という言い方をしているのが非常に気になるところ。上で僕が「ジェンダーフリー思想におかされた」云々したのはここが引っかかったから。安心して子供がうめる状況になっていないとするなら、それは男性にとっても女性にとっても、ってことだと思うのだ。ことさらに女性だけが被害者、というような言い方には非常に疑問を感じる。

これで終わりじゃねえぞ。まだある。「どのような社会にすれば」と設問にあるとおり、女性が子供を生めない状況なのは社会の責任、という前提である。受験産業の模範解答には

  • 国や地方公共団体が保育所の数を増やしたり、企業が託児所を備えるなど、子どもを生んだ女性が仕事を続けやすい社会。 
  • 男性が育児休暇をとりやすい環境を作り、父親も積極的に育児を手伝うような社会。
  • 2人以上生んだ女性に対して国が補助金を出すなど、子育ての費用への負担が少ない社会。
  • 国が、土地の値段を下げる、また集中した人口を分散させるなどの政策を行い、より多くの子どもを育てられるような、ゆとりある住宅環境が整っている社会。

とある。本気でこんな解答をするガキはイヤだな。これらの模範解答をするには、前提として「行政が保育所を作っていない、企業が託児所を備えてないので女性が仕事を続けにくい」「男性が育児休暇を取りにくい」「子育て費用を国が負担しない」「国が住宅環境を整えていない」という知識が必要になる。

すべてが行政の責任なのである。全てバカマスコミの受け売りじゃないか。

こういう模範解答をするような子供を育てるには、「大人の気に入るような回答をしなさい」という教育をしつづければよいのだろう。あるいはマスコミ報道を鵜呑みにさせてもよい。そして最後には何事も全て社会や企業へ責任を押しつければOK。

こんな短い出題でずいぶんと僕を楽しませてくれた。ありがとう受験産業。

というわけで、俺的回答(その2)は、社会=行政では無いという前提でいきたい。社会とはすなわち家族、地域、そしてその次に国のことであるはず。というわけで、

「地域、家族が一体となって子育てを支援する社会」

と、小学生もびっくりなシンプル回答をしたい。しかしこれでは行政や企業を攻撃していないから、点数はやっぱりくれないだろうね。

ちなみに、受験産業の解説によると、

「あなたの考えを書きなさい」という設問では、ほとんどの場合、ただ好きな考えを書けばいいというわけではありません。それまでに身につけた社会科の知識や、その問題が起こっている社会背景をふまえて書く必要があります。このような「考えを問われる設問」は、ふだんからいろいろなことに対して、問題意識をもっているかどうかが試される問題だといえます。

模範解答を見れば明らかなように、小学生に解決方法を考えさせるのは無理がある。それは結局大人の考えでしかないからだ。小中学生時代は、知識を詰め込む時期であって、応用させる時期ではない。「こうあるべきだ」はこの子供たちが大人になってから考えるべき問題と思う。