「互いに認め合う社会」ってナニ?


認め合う社会万歳!

ゆとり教育の弊害

 最近のゆがんだ「ゆとり教育」はいろいろな弊害を生み出したと思う。いわゆる教育テレビ番組で、「君の友達が薬物をやっているのを見たら、君はその友達に対し、どうするか」との問いに対し、男子生徒はこう答えた。

「悪いことだと思う。でも、その人が薬物をやるという選択をしたのだから、それはそれで彼の選択を認めなくてはならないと思う。」だそうです。ものすごくビックリした。結局つまり何もしないということらしいのだ。「選択を認め」なんて言うのは言い訳であり、他者との関わりをしたくないだけかもしれないが、なんとも言えない虚脱感を覚えた。

 匿名掲示板で、「○○というポルノ男優は、実は結婚している。その奥さんもポルノ女優らしい。お互いに、だれとセックスしようが全く干渉しあわないらしい。この夫婦の子供は全く持って不幸だと思う。醜い家族形態だ。」との発言があり、その直後に反論があった。「醜いって何だよ。いいじゃないか人それぞれなんだから。認めろよ。醜いなんて言って否定するなよ」とのこと。さて、ここで大きな疑問。

認めるとは悪い評価をしてはいけないということか

 「認める」って何ですか??「醜い=否定=認めていない」ということみたいだから、この人が言う「認める」とは、たぶん「悪い評価するな」ということなのだろう。これには非常にうんざりさせられた。

 さて、「悪い」「醜い」といった、マイナス側の評価はしてはいけないようなな空気が、ここのところ蔓延しているように思える。それは「認め合っているから」なのか?

 醜いというマイナスの評価をしてはいけないということは、対極にある美しいというプラスの評価もしてはいけないと言っているのと同じことだ。醜いものを醜いと評価できない奴らが、美しいものを美しいと評価できない。「醜いもの」と「美しいもの」は相対的なものであり、それはおなじ評価軸だからだ。

判断してはいけないということは生きるなということ。

 生きるとは判断することでもあると僕は思っている。多くの価値の評価軸を持ち、価値判断をすることは、大げさに言えばそれすなわち生きることそのものだとも思っている。そうした価値判断を放棄するということは、それはすなわち生の一部を放棄しているのに等しい。

 で、現在教育現場でもてはやされている「お互いに認め合う社会」っていうのは、すなわち評価を放棄する社会、ということになるのだと思う。そんな社会はまっぴらごめんである。薬物は(本人にとっても社会にとっても)悪いものだから友人が薬物を使用していたら諭してやめさせる努力をするべきだし、くだんのポルノ男優女優の結婚生活は醜い。きちんと評価ができなくてどうするんだ。

ちょっと脱線

 さて、「価値観の違いを認め」でgoogle検索してみた。「他文化、他者との価値観の違いを認め、お互いに尊重し」という使われかたをしている。単純に「人間それぞれ違うものだという認識を持つべきだ」という意味。それならば理解できる。ごく単純な当たり前の話だ。しかしそれを馬鹿みたいに拡大解釈し、評価さえもするな、という意味で使用する例が非常に多く見られるのは一体なぜなんだろう。

 ただ、全てが「ゆとり教育」の責任にするのもなんだか違う気がする。それはみんな生きたくないから、評価したくないからなんだろうかと邪推する。生きること、評価することに対しては責任が発生する。すなわちみんな責任を持ちたくないということではないか。現在はそういう風潮があると思っている。