1521-1530


1位 コルテスがアステカ王国を滅ぼす

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ルナン・コルテス率いるスペイン人が、1921年、アステカ王国を滅ぼし、完全に破壊した。1920年の民衆蜂起によってモクテスマ2世が殺されると、スペイン人はいったんテノティティトランを退却した。アステカ人はモクテスマ2世のあとに新王クイトラワックを選んで団結していたが、スペイン軍が持ち込んだ天然痘が蔓延して、在位わずか80日でクイトラワックは死亡し、25歳の勇敢な戦士クアウテモックを王に推戴した。1521年の始めコルテスは5万余のスペイン兵・トラスカラ・テスココの連合軍を率いてアステカに侵入すると、メキシコ中央盆地の都市を攻略して4月28日にテノチティトランを包囲した。3ヶ月以上の攻防の末、8月13日にクアウテモックは捕らえられアステカは滅んだ。クアウテモックはコルテスの短刀を指さして自分を殺すように言ったが、コルテスは彼を殺さず、勇者として手厚くもてなした。しかしそれは始めのうちだけで、黄金の場所をつきとめるためにコルテスは彼を拷問にかけた。1525年10月、反乱を企てたとの疑いによりクアウテモックはコルテスによって絞首刑に処された。その後スペインは金銀財宝を略奪し徹底的にテノチティトランを破壊しつくして、遺構の上に植民地ヌエバ・エスパーニャの首都(メキシコシティ)を建設した。アステカ人の多くが奴隷にされスペインのメキシコ経営に酷使され倒れ、あるいは旧大陸から伝わった疫病に感染し、そのため地域の人口が激減した。


2位 バーブルがムガル帝国を創始

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フガニスタンを拠点にするバーブルが、北インドに進出してスルタンを名乗り、ムガル帝国を創始した。ティムールの血を引くバーブルはシル川上流のフェルガナの領主であったが、ティムール朝の帝都サマルカンドを領有したこともある。16世紀初頭にアフガニスタンのカブールに拠点を構えてからもしばらくはサマルカンド遠征を試みていたが、1512年にウズベク族に敗れたのを期に、西方への進出をあきらめ、インド進出をもくろむようになったという。1519年以降、最後のデリー=スルタン朝となったローディー朝を攻撃し、1524年にはパンジャーブ地方を占領下に置いた。1526年にはパーニーパットの戦いで領土奪回を叫ぶスルタン・イブラーヒーム率いるローディー朝の大軍を銃を駆使して破り、デリー、アーグラを占領。スルタンとして即位し、ムガル帝国を創始した。バーブルの強さの秘密はやはり銃・大砲といった近代兵器。サファビー朝から入手しているものと見られている。


3位 ドイツ農民戦争

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ルティン・ルターの「95ヶ条の論題」から始まった宗教改革は、ドイツのあらゆる階層に深刻な影響を与えた。ローマ教皇と結ぶ神聖ローマ皇帝の集権化に反発する諸侯はルター派に転じ始める。1922年には南西部でフランツ・フォン・ジッキンゲン率いる騎士たちがトリーア大司教に対し反乱を起こす事件が起こる。そして教会や諸侯の抑圧に苦しんでいた農民たちもついに立ち上がる。ドイツ農民戦争は、1524年、西南ドイツのシュヴァーベン地方の修道院の農民反乱から始まった。彼らは賦役・貢納の軽減、農奴制の廃止など「12ヶ条の要求」を掲げて各地の農民に呼びかけたため、蜂起はシュヴァーベンから東南のチロルへ、東北のチューリンゲン・ザクセンへと広がっていった。この農民反乱に直面した諸侯たちはシュマルカルデン同盟を結成して、農民軍の鎮圧にあたった。農民反乱が最も激しく戦われたのは、フランケン地方の北のチューリンゲン地方であった。その中心都市がミュールハウゼンで、この都市を拠点に農民反乱を指導したのがルターと一時親交のあった聖職者のトマス・ミュンツァーであった。ミュンツァーは、農民だけでなく鉱山労働者にも呼びかけ、彼らの参加を得て農民軍を強力な軍隊に組織し、諸侯・領主を完全に排除し、蜂起者による共同社会「地上の神の国」を実現することを説いた。6000人に膨れ上がった蜂起軍は、諸侯の城塞、教会、修道院を次々に襲撃していった。ルターははじめ、反乱に立ち上がった農民に同情的であったが、このトマス・ミュンツァーに指導される反乱が始まると、これを厳しく非難し、諸侯たちに徹底的に鎮圧するよう勧告した。ルターに激励された諸侯軍は、1525年5月、ミュンツァー軍と決戦を行った。その大半が槍や鎌しか持たない農民軍は勇敢に戦ったが、大砲で武装した諸侯軍の敵ではなく、徹底的に粉砕された。ミュンツァーは捕らえられて拷問された上処刑された。こうして、ドイツ農民戦争は、10万人の農民が殺されて敗北に終わり、農民は一層農奴的抑圧下に置かれることになった。一方、勝利した諸侯勢力は、勢力を強めて各地で割拠し、ドイツはその領邦的分裂をさらに強めることになった。


4位 スペインの航路開拓艦隊が世界一周を達成

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1519年、モルッカ諸島への西回り航路開拓のために本国を出発した5隻のスペイン艦隊のうち、ビクトリア号が1522年9月6日にスペインに帰還した。ポルトガル人フェルディナンド・マゼラン率いる艦隊は、大西洋を横断した後、南アメリカ大陸に沿って南下していき、1520年10月21日、困難の末に西の海へと抜ける道(マゼラン海峡)を発見した。彼らはこの海を「太平洋」と名づけた。地獄のような長い太平洋横断の末、1521年3月16日、フィリピン諸島に上陸した。マゼランはセブ島の王をキリスト教に改宗させる。そして彼を王として認めるように周辺の島々に要求したが、これに隣島のマクタン島の領主ラプ=ラプが反対し、マゼランとの戦闘になった。この戦闘に敗北し、マゼランは4月27日戦死した。残された乗組員は航海を続け、1521年11月8日当初の目的地であったモルッカ諸島にたどり着き、香辛料を積み込んだ。ビクトリア号でスペインに帰国できた乗組員は出発時の265名のうちわずかに18名であった。


5位 ローマ略奪

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1527年5月、神聖ローマ帝国の軍がローマに進行し、徹底的な破壊が行われた。神聖ローマ帝国とスペインを支配するハプスブルク家とフランスのヴァロワ家はイタリアを巡りの1521年以来激しく争った。1525年にはフランス王フランソワ1世が捕虜となるなど、戦争は泥沼化した。1526年、教皇クレメンス7世はフランスの呼びかけた反ハプスブルグのコニャック同盟に加わる。神聖ローマ皇帝カール5世はこれに報復するためローマに進軍。統制の取れていない兵士による殺戮、破壊、強奪、強姦に対して、ローマ市民はなすすべもなかった。ローマに集まっていた文化人・芸術家は殺され、あるいは他の都市へ逃れた。文化財は奪われ、教会なども破壊され、ルネサンス文化の中心だったローマは壊滅、停滞の時期を迎えた。これによって1450年代から続いていた盛期ルネサンス時代は終わりを告げた。 6月に教皇は降伏し、1529年、教皇と皇帝はバルセロナ条約を結んで和解、イタリアはカール5世の支配下に入った。


6位 オスマン帝国軍がウィーンを包囲

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セリム1世の後を継ぎ、若くして東ヨーロッパから中東にまたがるオスマン帝国の支配者となったスレイマン1世は、即位してまもなく1521年にハンガリー王国からベオグラード、1522年に聖ヨハネ騎士団からロードス島を奪うなど活発な外征を行った。1526年には、モハーチの戦いでハンガリー王ラヨシュ2世を破ってハンガリー中央部を平定し、ハプスブルク家のオーストリア大公国と国境を接した。スレイマンはラヨシュの戦死により断絶したハンガリー王位に、オスマン帝国に服属したトランシルヴァニア公サポヤイ・ヤーノシュを推し、ハンガリー王位継承を宣言したハプスブルク家出身の神聖ローマ皇帝カール5世と対立すると、1529年に第一次ウィーン包囲を敢行したが、ハプスブルク家の抵抗により長引いた包囲戦に加え、冬将軍が到来していた。スレイマン1世は、撤退を厳命し、粛々と去っていった。ウィーン攻略には失敗するもののオスマン帝国はヨーロッパの奥深くにまで侵攻して西欧の人々に強い衝撃を与えた。


7位 スウェーデンが独立、新教国となる

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ンマーク、ノルウェー、スウェーデンからなるカルマル同盟の実態は、デンマークの支配する海上帝国であり、スウェーデンでは常に独立運動がくすぶっていた。そんな中、1520年にはスウェーデン独立派がデンマーク王クリスチャン2世に大量粛清される「ストックホルムの血浴」が起こる。生き残ったグスタフ・ヴァーサは反乱を率い、1523年、スウェーデン国会はグスタフを国王に選任する。グスタフ1世はカルマル同盟を離脱。1527年にはルター派の教義を全面的に受容した。この影響で、フィンランドにも急速に新教が広がっている。


8位 ツヴィングリがチューリッヒで宗教改革を行う

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イス・チューリッヒ司教座聖堂の説教師ツヴィングリは、1523年、宗教改革に着手した。ツヴィングリはルターと同じく、信仰の基準を聖書のみと考え、これに根拠のない制度を、市参事会の協力を得て廃止していった。聖画、聖像は破壊され、ミサも廃止となった。ツヴィングリはさらに改革をスイス全土に拡大しようと考えており、カトリック諸州との対立が深まっている。


9位 コンゴ王がポルトガル王に奴隷貿易の中止を要請

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くのアフリカ部族長がポルトガルの奴隷貿易に加担する中、コンゴ王国のマニコンゴ・アルフォンソ1世は、奴隷の流出が国の衰退を招くことに気づき、1526年、ポルトガル国王ジョアン3世に対して奴隷貿易を止めるよう要請する親書を送った。しかし、ポルトガルが奴隷貿易から手を引く気配は全くない。ポルトガルへの留学経験もあり、キリスト教徒であるアルフォンソ1世の親ヨーロッパ・キリスト教化政策は、一方でポルトガルの奴隷貿易に荷担して富を得ようとする勢力を生み、保守派からは急激なキリスト教化のあまり伝統文化の軽視・無視への反発を引き起こし、コンゴ王国は分裂の危機にさらされている。


10位 寧波の乱

仁の乱以降の日明貿易をめぐっては、、幕府の管領家で堺を貿易の拠点にしていた細川氏と、山口を本拠に博多、兵庫などに権益を持っていた大内氏が、それぞれ独自に使節団を派遣して、勘合符を争って対立していた。正徳帝(武宗)の発行する勘合符については、大内氏が独占した。1523年、大内義興、細川高国がそれぞれ遣明使節がを派遣すると、寧波において大内方の使節が細川方の使節を襲撃する騒動に発展。対日感情の悪化から1529年には市舶司大監は廃止される。これによって日明貿易の混乱に拍車がかかり、後期倭寇による密貿易が活発化している。