活動経歴


来生たかお大百科

デビュー前夜〜「旧知」との出会い

1969年、作曲家になりたいと思った来生は、いずみたくの事務所に押し掛けたものの断られ、その後、自作曲を収めたカセットテープを持参し、いずみ宅のインターフォン越しにそれを聴いて欲しい旨を伝えたが、またしても断られてしまった*1。同時期には浜口庫之助の下にも弟子入り覚悟で売り込みに出向いたが、同様に門前払いの状態だった*2

1970年、大学時代の20歳の時に結成した3人組のバンド「ビコーズ」(ピアノ・ヴォーカル:来生、ギター・ヴォーカル:中塚、ベース:渡辺)で初めて人前で歌ったのは、音楽喫茶の渋谷「青い森」においてである*3。その後、銀座「タクト」、新宿「アシベ」等にも出演し、ザ・ビートルズのナンバーやオリジナル曲等、10数曲を披露するようになる(渋谷「ジァン・ジァン」はオーディションで落選)*4。バンド名はデイブ・クラーク・ファイブの楽曲「Because」が由来であり、ライヴのオープニングでは同曲を歌っていた*5。MCは、他のメンバーに任せていたという*6。ちなみに、この頃に歌っていた「別れの来る時」という楽曲は、後に手直しされてデビュー曲の「浅い夢」になった*7

「青い森」のオーディションに合格した事を機に城西大学経を中途退学した来生だったが、上手いグループを目の当たりにした事で人前で歌うのが恥ずかしくなり、同所のステージに立つのを止めてしまう*8。そんな頃、アンドレ・カンドレの名義で既にプロデビューをしていた井上陽水が同所にゲスト出演し、お互いオリジナル曲やビートルズ・ナンバーを演奏していた事から懇意になる。当時、まだギター1本で活動していた井上にはバンド編成で演ってみたいという願望があり、「ビコーズ」がバックを務め始めたのだが、程なく来生以外のメンバーが抜けてしまった為、2人で渋谷「ジァン・ジァン」や原宿「RUIDO」の他、関東近辺のライヴやラジオ番組に出演するようになった*9。よくポール・マッカートニーの「Monkberry Moon Delight」等を披露していたが*10、来生は当時を振り返り、「習い立てのピアノで迷惑かけたんじゃないかな」と回顧している*11。「青い森」では、古井戸や泉谷しげる、RCサクセション等と顔馴染みになり*12忌野清志郎とは2000年に共作(作詞:忌野清志郎/作曲:来生たかお)も実現させている。また、渋谷「ジァン・ジァン」では、1993年にバックバンドのメンバーになる土屋潔とも共演していたという*13

ただ働いて食べて寝ていた頃〜アルバイトと正社員

1971年、井上陽水小椋佳のディレクターをしていた多賀英典と知り合い、井上のファーストアルバム『断絶』にアコースティックギターとコーラスで参加する事になる。来生は、多賀との対面を導いた井上の存在はデビューの大きなきっかけであるとして、後々コンサートのMCやインタビューにおいて度々回顧している。

1972年、本格的に作曲を始めた来生は*14、自分の作る楽曲は画期的で絶対に良いのでいつかは認められるという自信が強かったが、音楽業界への不信があった為、作曲コンクール等には敢えて自信作で応募しなかったという*15(応募をしていたがボツにされたとの記事もあり*16)。しかし、「そろそろ何とかしなければ」という気持ちもあり、唯一の伝手で「この人ならば大丈夫」と思っていた多賀にデモテープを持ち込んだのだが*17、1週間以内に電話をするという約束の筈が梨の礫だった為、心配になって連絡をしたところ、「レコードにするような良い曲はない」と突っ撥ねられてしまう。作曲の才能を自負し、10数曲もの自信作を渡して翌日にはもう連絡があると考えていた来生は、この結果に大きなショックを受け、頭にも来たという*18。しかし、この人に認められなければ他へ行っても駄目だろうと思い、諦めなかった*19。来生えつこによれば、多賀が参ってしまうくらいの粘り強さだったという*20

100曲近くを持って行っても中々褒めて貰えず、「この人はどういう耳をしているんだ」と疑念を抱くまでになったが、後にこの頃の楽曲を聴き返した来生は、面白い部分はあるものの構成等に色々と難点がある為、多賀の判断は正しかったと述べている*21。また、自作品を冷静に評価出来ていなかったと感じ、作家にとっては客観的な判断が必要と自戒している*22

既に「ビコーズ」を解散していた来生は、栃木県(宇都宮)のゴルフ場の建設現場で肉体労働(1日で嫌になったが契約の1ヶ月間やり通した)や製菓工場の夜勤、デパートの飾り付けやビニ本の倉庫の整理等、少しでも稼ぎの良いものを選び*23、ただ働いて食べて寝るようなアルバイト暮らしを続けていた*24。ちなみに、来生の母親はそんな状況に対し、少し様子を見ようと思うだけで特に心配はしなかったという*25。また、父親も何も言わなかったが、来生はそれが却ってプレッシャーになったと語っている*26

或る日、地方で農場をやるという友人に誘われた来生は、本気で赴く気になっていたが、出発の前日に突然多賀から電話があり、スタジオへの出入りを許される*27。こうして、後に「およげ! たいやきくん」を作曲する事になる佐瀬寿一と互いの曲を手伝いながらデモテープ作りに励み、同時に多賀が設立したキティミュージックの社員としてインスペクターをこなす日々が暫く続く事になる*28。当時のキティミュージックの事務所はマンションの一室に数人の若者が詰めており、来生は電話番等もやっていたという*29。羽田健太郎にピアノを依頼した事や*30、中山ラビのマネージャーをしていたという話もある。また、当時のスタジオには田中清司、村上"PONTA"秀一、大村憲司、是片博邦、浜口茂外也等の姿もあり、彼等への報酬は1時間で4000円だったが、松任谷正隆は倍の8000円で、毛皮のコートを着て出入りする姿に驚いたという*31。ちなみに、来生の月給は5万円だった*32

君のレコードを作ろう〜「酔いどれ天使のポルカ」と「終止符

1973年、このままインスペクターのまま生きて行くのかと思っていた頃、デモテープ内の1曲「酔いどれ天使のポルカ」が多賀に認められ、亀渕友香への提供曲に採用される。ただ、作家デビューはしたものの、仕事はほとんどなかった為、プロという意識は全くなかったという*33

1974年11月5日、「終止符」のデモテープを聴いた多賀から「ヴォーカルが気に入った(良くなって来た*34)。君のレコードを作ろう」との一報が入った。ヴォーカルの未熟さを自覚しつつも、自作曲に最も適しているのは自分の声だと感じ、レコードデビューを思い描いていた来生は、この言葉にはいたく感動したという。1975年、かくして、書き溜めていた楽曲の中から50曲をデビュー候補曲として録音する運びとなる*35。ただし、「終止符」は高田真樹子が歌う事になり、来生版は後に4枚目のオリジナルアルバム『Natural Menu』に収録された。


ブレイク夜明け前〜第三の新人

『週刊少年マガジン』1976年12月12日号にて「カラー特別企画 陽水・小椋佳につづく彗星 ニューシンガーソングライター 来生たかお大誕生」と題された巻頭特集が組まれた。トップページには小椋佳も映っており、「東京駅かなんかの前の並木道で撮った」と証言している*36。また、同記事には井上陽水による「生きていたんだね,来生くん」と題したコメントも寄せられている。ちなみに、当時の若者の音楽はまだフォークソング色が濃く、ジーパンにフォークギターというスタイルが多かった中、ピアノで歌う男性歌手は珍しかった。

当初、井上陽水小椋佳、敬愛するハリー・ニルソンのような、テレビ等のメディアには余り登場せず楽曲だけを発表して行くレコーディングアーティストのような活動形態を理想としており*37、当然、多賀が手掛けた井上や小椋と同じ路線になるだろうと思っていたが、前出の少年誌面の特集をはじめ、来生の事を気に入ったTBS系の音楽番組『サウンド・イン"S"』の若いディレクター(五十嵐某)が局長の許可も取らずに出演を決めてしまったり*38、FMラジオで特番が組まれたりと、一転、積極的な露出という方針に決まり、来生は大いに困惑したという*39。これは、多賀の3人目の秘蔵っ子であれば2、30万枚は確実に売れるだろうという目算があった為だが、人前で何かをやるのが専ら苦手な来生にとっては辛く、「こんな事ならば作曲に徹した方が良い」と思いながら必死でこなしたという*40小椋佳によれば、来生が余りにも寡黙な為、付き添いとして一緒にラジオ出演をした事があったという*41

ヒット確実のデビューアルバム〜『浅い夢

1976年にリリースされたデビューアルバム『浅い夢』は、アレンジャーやスタジオミュージシャンとして、元ザ・モップスの星勝や、高中正義、高橋ユキヒロ(高橋幸宏)、小原玪(小原礼)、今井裕、後藤次利等のサディスティック・ミカ・バンドの参加メンバー、更に、安田裕美、大村憲二(大村憲司)、是方博邦、斉藤伸雄(斉藤ノブ)、村上秀一(村上"PONTA"秀一)、浜口茂外也等が名を列ねている。1年も掛けて贅沢に作らせて貰った来生は「こんなにして貰って良いのかな」と不安も感じたという*42。関係者から30万枚は間違いなく売れると目され、それ故に井上陽水小椋佳のように時間を掛けず、一気に売ろうという事になり*43、荒井由実にも気に入られていたアルバムだったが*44、蓋を開ければ6000枚程度という期待を大きく下回る結果に終わってしまう。

作家としての姉弟〜「マイ・ラグジュアリー・ナイト

そんな中、1977年にしばたはつみに提供した「マイ・ラグジュアリー・ナイト」がヒットする。この曲は、小林亜星、筒美京平等のベテラン作家陣が参加した東洋工業(現・マツダ)のCM楽曲コンペの為に書かれたもので、候補曲が14曲もあり*45、来生姉弟は無名の自分達の作品が選ばれる事はないだろうと思っていたものの、参加14曲中、最後の2曲に残り、最終的にしばたはつみ自身が選んだ事により、栄冠を勝ち取った*46。これを機に2人はソングライターコンビとして一躍脚光を浴び、以降、楽曲提供の依頼が次々と舞い込むようになる*47

初の海外レコーディング〜『ジグザグ

セカンドアルバム『ジグザグ』は、ロサンゼルスのスタジオ「ララビー・サウンド」でレコーディングが行われた。デヴィッド・フォスター、ジェイ・グレイドン、ジム・ケルトナー等、錚々たる面々がスタジオミュージシャンとして参加しているが、これは、小椋佳、星勝、安田裕美のユニットであるフライング・キティ・バンドのアルバム『5・4・3・2・1・0』のレコーディングのついでに来生のアルバムも録ってしまおうという恣意的な方針だった*48。多賀によれば、井上陽水に「来生が売れたら多賀さんは天才だ」とからかわれた事もきっかけになったという*49

また、同アルバムに収録する曲が足りず、急遽、現地のホテルで、既に出来ていた小椋佳の詞に曲を付けたという*50。ちなみに、この時が来生にとって初めての海外旅行だった。海外録音という話題性も兼ね備えた『ジグザグ』に「今度こそは」と周囲の期待も高まったが、結局セールスは12000枚に留まった。

来生姉弟自身は、自分達の楽曲がレコードになるという喜びの方が大きかった為『浅い夢』『ジグザグ』のセールス的な結果に特段の落胆はなかった。ただし、この先もレコードを作らせてもらえるのかという不安はあったと述べている*51。多賀は後年、失敗に終わった一連の戦略に関して、来生を派手に売り出そうとした事を反省している*52。歌手デビュー40周年の折り、来生は、もしこの時にいきなりブレイクしていたら、40年もやって来られたかどうか、また、後にヒットさせる代表曲が生まれたかどうかは分からず、種を植え、芽が出て、枝が茂って花が咲くという過程を経た事が良かったと語っている*53


集客200人の壁〜キャンペーンの日々

1976年10月12日、東京都は青山タワーホールで開催されたデビューコンサート以降、数々のメディアへ顔を出す一方で、渋谷の「ジァン・ジァン」を中心に音楽喫茶でのコンサートを重ねていた来生は、観客が2、3名という時があったり、苗字を「らいせい」「きせい」「きしょう」等と読まれたりしていたものの、それはそれで気楽で良かったと回顧している*54。やがて、活動範囲は関東一円、名古屋、京都へと広がって行ったが、観客は一部のファンを中心にした200人前後が常だった。

そんな中、4月25日に封切られた東宝映画『黄金のパートナー』(1979/出演:三浦友和、藤竜也、紺野美沙子 他)の主題歌として使われた「そして、昼下り」はスタッフ間でも評判が良く、ヒットを予感した事務所は、各所のレコード店の売り上げから知名度が低いと思われる地方局の番組出演やレコード店の挨拶回り等、キャンペーンを企画する*55。しかし、時にはスーパーマーケットの前でカラオケで歌う事もあった当時を振り返り、来生は、自分が悲しく見え、「こんな事をやって何のメリットがあるのか」と怒りさえ感じたという*56

しかし、スタッフの予感通り「そして、昼下り」は歌手デビュー3年目にして初めてオリコンのチャートにランクインを果たした。初登場の第127位から最高位は第52位まで上昇し、その勢いに乗って企画された初のホールコンサート『PASTEL LIVE』は、立ち見も含め780人の観客を動員し、成功を収める事になった*57

歌手か作曲家か〜「Goodbye Day

マイペース且つコンスタントに楽曲をリリースし続ける来生だったが、CMのタイアップや映画、ドラマの主題歌への起用も続くものの、なかなか大きなヒットに恵まれなかった。次第に、歌手ではなく作曲家に徹するべきかと思い始めていた頃、10枚目のオリジナルシングル「Goodbye Day」がスマッシュヒットし、「もう少し頑張ってみよう」と奮起する事になる*58

思いがけぬ競作〜「夢の途中」と「セーラー服と機関銃

1981年12月19日に全国東映系で公開された角川映画『セーラー服と機関銃』の主題歌は、来生自身の歌唱で話が進められ、レコーディングも済んでいたが、同映画の総監督の相米慎二から主演女優の薬師丸ひろ子が歌うという発案がなされた。また、この時は「薬師丸だけの映画にしたい」という現場の声があったという*59

好評だったオリジナルシングル「Goodbye Day」に続く楽曲としてヒットを予感していた来生姉弟は、ここで勢いに乗りたいと考えていた最中だった為、大騒ぎになったが、同映画の製作者として名を連ねていた多賀英典は、相米の発案を受け入れて「競作シングル」という形を取った*60。多賀は「両方、必ずビッグヒットになる。今度こそ来生が売れる時だ」と姉弟を説得し、「そんなマジックがあるのですか?」と問われると「俺がそうしてみせる」と答えたという*61

一方、多賀は同じく制作者の角川春樹に対し、試写会の際まで薬師丸に主題歌を歌わせる事を伝えておらず、試写の後に角川から薬師丸版の曲名を「セーラー服と機関銃」に変えるように注文され*62、「セーラー服と機関銃」「夢の途中」としてリリースする事が決まった。

なお、この2曲は歌詞の一部に相違があるが、意図的なものではない。来生えつこによれば、レコーディングのぎりぎりまで歌詞を書き換える事は茶飯事で、この時はいつにも増して試行錯誤を重ねていた為、受け渡しの最中に手違いがあったと推定されるという。また、楽曲のタイトルが先に決まっているケースは稀だが、「夢の途中」というタイトルは不意に思い付いたという。ヒットの期待を込める場合は「夢」というキーワードを入れる彼女としては、来生のデビュー曲「浅い夢」に絡めて拘りを持っていた「夢の途中」というフレーズが「セーラー服と機関銃」の歌詞から消えてしまった事は残念だったが*63、薬師丸の澄んだ歌声を聴いた時は「いけるかも」と思ったという*64

因みに、来生は主題歌の候補として3曲を用意しており、その選定はプロデューサー(多賀英典)によってなされたが、来生自身は一番自信がなかった楽曲が選ばれたと回顧している*65

来生は、伊豆のスタジオでレコーディングをしている際に、リリース前から「セーラー服と機関銃」に何十万枚という予約が殺到している事を聞かされ、薬師丸の人気の程を初めて知って驚いたという*66

オリコンチャートでたちまち第1位を獲得した「セーラー服と機関銃」に先駆けてリリースされた「夢の途中」は、初動こそ第200位前後だったが、「セーラー服と機関銃」の影響もあってかランキングを上昇し続け、翌年の3月には最高第4位、有線ラジオ放送では第1位を獲得し、来生の最大のヒット曲となった。来生は当初から、アイドルの薬師丸はある程度良い所まで行くだろうと思っていたが、自身のヴァージョンがどうなるかは不安だったと述べている*67。それまでは、シングル盤をリリースする度に売れるのは大変だと感じていたが、それがいとも簡単に実現してしまい、「まさか」と吃驚したという*68

一気にメジャーになった事で来生を取り巻く環境は変わり、雑誌等の取材を受けるにしても、それまでは自ら出版社等に赴くかたちだったが、先方が来訪するようになり、歌番組に出演するようになると、近所の商店や学生から色紙を託され、帰宅後は決まってサインを書くという日々になったとの事である*69

ちなみに、「セーラー服と機関銃」のB面に収録された「あたりまえの虹」を作詞した小椋佳にもA面同様多大な印税収入が舞い込み、この思い掛けない出来事を来生の恩として「あれは嬉しかった」と回顧している*70

初めての音楽賞〜「シルエット・ロマンス

シルエット・ロマンス」は、ハーレクイン「シルエットロマンスシリーズ」のイメージソングとして作られた為、最初からタイトルは決まっていた。実力派歌手である大橋純子が歌うという事で、思う存分難しい曲を作ろうと考えた来生は、先に出来上がったサビの部分に確かな手応えを感じ、「これはいける」と思ったという。

一方、来生えつこによれば、同曲をあまり過度な情感を込めて歌って欲しくなかった為、あえて大橋がまだ歌い慣れる前の最初の2、3テイクを使用して貰ったらしい*71。当時休業を考えていた大橋は、歌手活動再開までの間世間が自分を忘れない為にも同曲をヒットさせたいと思っており*72、実際「セーラー服と機関銃」が忽ちヒットしたのとは対照的にじわじわと人気を獲得し、大橋は1982年の第24回日本レコード大賞「最優秀歌唱賞」を受賞、また、来生は同年の第2回日本作曲大賞「優秀作曲者賞」、来生えつこと共に「中山晋平・西条八十賞」を受賞している。

更に、来生は同年の日本レコードセールス大賞の作曲家部門において年間売上の第2位にランクインした。翌年、来生は、第1位だった筒美京平を抜きたいと意気込んでいる*73


と或る新人〜「スローモーション

1982年1月22日、デビュー前の中森明菜を担当するディレクターがキティレコードのオフィスを訪れた。来生が新人の楽曲提供を依頼される際は、大抵、音域を1オクターブ以内に収めて欲しい、誰でも歌えるようなシンプルな曲調にして欲しい等、或る種の「制限」が加えられるが、この時のディレクターは中森の歌唱力を強調し、何の条件を付けなかったという*74

来生は、デビュー前の中森がピアノの伴奏だけで歌った、高田みづえの「硝子坂」、岩崎宏美の「ロマンス」、山口百恵の「ひと夏の経験」「いい日旅立ち」のデモテープで聴き、低音域にパンチのあるその力強い歌声に驚いたという*75

殊に後者2曲に関しては、山口百恵を意識しながらも物真似の域を超えており、ピュアでありながらも陰がある歌唱の中森は「ポスト山口百恵」に最も近い歌い手だと思ったという*76。ちなみに、来生は上記のデモテープを宝物のように保管しているらしい*77

新人アイドルの枠を超えた大人の鑑賞に堪え得る楽曲を目指した来生は、マイナー調のバラードを想定しつつ、中森のピュアな部分も表現する為、サビにはメジャーコードを取り入れ、同じく提供曲の「あなたのポートレート」や「咲きほこる花に…」も同様に作ったという*78

再びの音楽賞〜「セカンド・ラブ

セカンド・ラブ」は、「シルエット・ロマンス」のヒットにより大橋純子サイドから再び楽曲提供の依頼があるだろうと見越して作られた曲だったが、中森明菜の担当ディレクターの目に留まり「是非、明菜に歌わせたい」という事で提供に至った。ただし、セカンドシングルという事で「セカンド・ラブ」というタイトルを付けたものの、実際にはサードシングルとして1982年11月にリリースされた。まだデビュー間もない中森が大橋純子用に音域を広くして作った同曲を歌った事に対して来生は「大変だったんじゃないかな」との感想を述べている*79

1983年10月5日、同曲が第3回日本作曲大賞(及び「金賞」「優秀作曲者賞」)を受賞した際、松任谷由実が原田知世に提供した「時をかける少女」もノミネートされていた。来生が会場に到着した時、松任谷がリハーサルで「時をかける少女」を歌っていたが、原田は都合が悪くて出席出来ず、松任谷も本番では歌わないので不思議に思っていると、先んじて発表された「金賞」の3曲の中に「セカンド・ラブ」と共に「時をかける少女」も選ばれた為、最終的に松任谷が「大賞」を獲り、自身で歌って締めるのだと予想していた*80。関係者共々、滅多に公の場に姿を見せない松任谷がわざわざ来ていて、しかもステージに向かい易い通路側に座っていた事からも、事前に「時をかける少女」の受賞は決まっていると思っていたという*81。「優秀作曲者賞」受賞時は中森明菜が自ら選んだというグレーのセーターをプレゼントされた後にバックでピアノ伴奏をし、「大賞」受賞時は司会の関口宏から急遽マイクを渡されてデュエットを披露している。なお、同賞の景品として日産自動車から「ニューシルビア・ハッチバックターボRSX」が進呈されたが、当時、姉弟は共に運転免許を持っていなかった為、急遽来生夫人が教習所へ通う事になった*82。ちなみに、本曲より前に松任谷由実が同じタイトルで作詞をした楽曲(作詞:呉田軽穂/作曲:杉真理)を須藤薫に書いており、後にそれを知った来生は動揺したという*83

念願の楽曲提供〜美空ひばり

1983年、念願だった美空ひばりへの楽曲提供が実現した。来生によれば、「夢の途中」のヒットにより作曲家として一人前になれたと感じ、楽曲提供を申し入れたという*84。提供曲「笑ってよムーンライト」が大ヒットするという思惑は外れたものの*85、来生自身は名曲と自負している。レコーディングの折り、美空は真っ赤なスーツ姿でスタジオに現れ、編曲を担当した坂本龍一と共に感激したという(ただし、来生は後年のラジオで、坂本はレコーディングに立ち会っていないと発言している*86)。来生は、美空にイメージ通りに歌って貰えるかどうか不安だったが、スピーカーから流れて来た歌声は素晴らしく*87、レコーディングは難なく完遂し、プロ意識を感じたと述べている*88。また、姉弟で美空邸を訪れた際、カウンターバーのある応接間に通されて待っていたところ、すっぴんの美空が普段着で現れ、先程まで点滴を受けていた事をさらりと告げられたという*89もっとジャズナンバーも歌って欲しいと懇願したところ、美空自身もそれを希望しているものの、多くの観客の要望と合致しない為、なかなか叶わないという思いを吐露された*90。美空とはフジテレビ系『夜のヒットスタジオ』で一度だけ競演も果たしているが、番組側の、ピアノはフェイクでもかまわないとの意向で、来生はピアノに向かっているだけで実際には弾かなかったと明かしている*91

日本的な響き〜ポール・モーリア

1984年、フランスはパリにおいて企画アルバム『LABYRINTH』のレコーディングを行った。同アルバムのプロデュース及び全編曲を担ったポール・モーリアは、それまで、必然性を感じないという理由で日本人アーティストからのプロデュース依頼を断っていたが、来生の楽曲と自身の編曲は合うと感じ、引き受けたという*92

また、来生を「一見シンプルだが人の耳を惹き付ける明快でロマンティックな音楽を創るアーティスト」と評し、そのメロディーとヴォーカルが持つオリジナリティーに尊敬の念を抱いたという。「来生作品は多少ヨーロッパ的に聞こえるが、そのメロディーが持つセンチメンタル且つロマンティックな雰囲気は、フランスにはない日本的な響きである」とし*93、いづれもメロディーラインを重視した美しい曲であると述べている*94

対する来生は、自作品のメロディーを生かしてくれる美しいストリングを嬉しく感じ*95、また、ポール・モーリアの楽譜に通常各楽器の演奏者に委ねられる事が多いフィルインまで詳細に記されているのを目にし、その完璧主義振りに驚いたという。

同年に開催されたポール・モーリアの来日公演『PAUL MAURIAT JAPAN TOUR 1984』の11月23日・12月2日にゲスト出演し、翌1985年には上記アルバムを基調とした『LABYRINTH TAKAO KISUGI with PAUL MAURIAT』と題した映像作品もリリースしている。更に、2008年にリリースされた10枚組CD『ポールモーリアの世界』(ユーキャン〈ユニバーサルミュージック〉)付属の特別編集誌『ポールモーリア物語』には「ポールモーリアとの思い出」と題されたコメントを寄稿している。

前代未聞の11日間〜歌手デビュー10周年

1986年6月30日〜7月22日、歌手デビュー10周年企画コンサート『来生たかお 10th ANNIVERSARY ELEVEN NIGHT THEATER』が開催された。11日間(週末を含む3日程の単位)で既出のオリジナルアルバム11枚から全曲披露するという前代未聞の内容だった。折りしも、次のオリジナルアルバム『I Will...』の制作の途中でもあり、来生自身は同企画を承諾するかどうかかなり悩んでいたが、先んじて告知が出てしまった為、止むなく決行となった。そして、危惧していた通り、コンサートは準備の段階から過酷を極める事になる。

基本的に来生自身が百数十曲にも及ぶ楽曲のライヴ用アレンジを施した後、バックバンドと共にリハーサルを行い、いざコンサートが始まってからも、毎回セットリストが異なる為、ステージが終わる度に次回の練習をこなすという状況で、アルバム制作の方は一旦中断せざるを得なくなった。また、MCの内容もいつも同じというわけにも行かず、コンサートの後半は来生えつこが台本を用意し、彼女自身もスケジュールの都合が付いた日は舞台に上がった為、観客席でゆっくり楽しめず残念だったと語っている。全ステージ終了後、来生はやつれていたらしいが、その後すぐにアルバム制作が再開され、姉弟は事務所とレコーディングスタジオに分かれてカンヅメになった。

当初、来生えつこは、歌手デビュー10周年記念のアルバムでもある為、かつてのように膝を突き合わせて1曲1曲作りたいとの思いもあったが、時間的に叶わず口惜しかったと回顧している。ちなみにこの企画を先に耳にしていたら絶対反対したとも告白している*96。なお、7月12日(『夢の途中』の回)の公演は後日ラジオで放送された。

来生たかおという人が思い浮かんだ〜井上陽水「少年時代」

1990年、井上陽水の代表曲「少年時代」(同年10月21日リリース)でピアノを担当する。レコーディングスタジオの井上から「今レコーディングしてるんだけど、兎に角来て」と電話が入り、ポール・マッカートニーのような、専業のピアニストには出せない味のピアノが欲しいと言われたという*97。来生に依頼をした理由として井上は、「彼は曲を作って歌っている分、ピアノが手薄かなと思って」と笑いつつ「どこか未完成でまだまだ上達する余地のある少年」というイメージが曲調に合致し、実際に望み通りのピアノであった事を明かしている*98。同曲の編曲を担当した星勝によれば、井上は「来生のピアノじゃないと成り立たない」と語ったという*99。1999年9月24日、井上陽水の数年振りの全国コンサートツアーに先駆けて開催されたシークレットライヴにおいて、初めて同曲での共演が実現した。


最初で最後の大舞台〜歌手デビュー15周年

1991年5月23日、歌手デビュー15周年記念イベントとして、東京は日本武道館において『来生たかお in 武道館 アコースティックスペシャル』を開催した。「夢の途中」が大ヒットした当時にも同所での公演の勧めはあったが、自身のコンサートとしてはキャパシィーが大き過ぎるとの理由で断っていた。しかし、歌手デビュー15周年に際して再び同企画が持ち上がった際は、記念の年でもあり、広い会場で観てみたいとのファン心理も踏まえ、一生に一度という思いで実現させた。編成は、来生自身のピアノ、バックバンドの「スタートル」、70人から成るオーケストラというものだった。ちなみに、アマチュア時代に同所でザ・ビートルズの日本公演を観た頃と違い、安全地帯の公演を観た時(『来生たかお in 武道館 アコースティックスペシャル』の数年前)は、それ程大きく感じなかったという*100

大明神との対面〜ギルバート・オサリヴァン

1991年10月25日、ギルバート・オサリヴァンとの競作シングル曲「出会えてよかった」「What A Way(To Show I Love You)/出会えてよかった」がリリースされる(オサリヴァンは後者の作詞も手掛けており「共作」というかたちでもある)。『来生たかお Since 1976 Concert Tour FROM NOW』のパンフレットは、2人の写真を中心に構成されている。

自他共に認めるオサリヴァン・ファンの来生は、それまでにもオサリヴァンのベストアルバム『アローン・アゲイン』(1986年3月25日リリース)、『アナザー・サイド』(1988年6月25日リリース)にコメントを寄稿(後者は選曲監修も兼務)していたが、1990年、日本における事実上の復帰作として発表されたアルバム『In The Key Of G』へも、忌憚のないアルバム評と共に復帰歓迎の思いを寄せた。この時、音楽シーンへの復帰を盛り立てる話題作りとして、オサリヴァンによる来生作品のカヴァー企画が持ち上がるが、「どうせなら新作を」というオサリヴァン自身の意向により、競作(共作)が実現した。来生姉弟は、ずっと自作自演でやって来たオサリヴァンが自分達の曲を歌ってくれる事が信じられなかったと回顧しており*101、オサリヴァンがリリースした全楽曲の中で、唯一の他作家の作品となった。

来生は、過去にもオサリヴァンをイメージして作曲りをした事はあったが、それを超えるものというプレッシャーの中で書き下ろした4曲の中から「What A Way(To Show I Love You)/出会えてよかった」は選ばれた*102。同曲は、オサリヴァンの日本盤アルバム『Sounds Of The Loop/あの日の僕をさがして』にも収録され、同アルバム収録の「Can't Think Straight/ぼくときみのラヴ・ソング」(作詞・作曲:ギルバート・オサリヴァン)ではデュエットも実現している。

スタッフの竹内隆によれば、企画アルバム『LABYRINTH II』のレコーディングをパリで実地する企画がスケジュール的に叶わず、その代わりにギルバート・オサリヴァンとの共演が現実味を帯びたという*103

1991年9月1日、2人は初対面を果たす。来生は、企画アルバム『LABYRINTH II』の歌入れを8月30日いっぱいで終了させ、スタッフと共に、時差の関係で31日の夕刻にイギリスはロンドンに、その後、2時間弱の乗り継ぎを経て同国領内のジャージーに到着、出迎えにはオサリヴァン夫人がやって来たという*104。翌朝、早速ホテルからオサリヴァン邸へ向かい、土産としてDATウォークマンを進呈した後、邸内外で写真撮影やインタビューを行った*105。オサリヴァン邸は約200年前からある農家を改築したもので、プールやテニスコート、胡瓜畑等が点在する広大な敷地を有していた*106。その後、取材が予定の時間をかなり超えた為、夕食の予約をしていたヨットハーバーのレストラン*107に来店時刻の変更を連絡したという*108

来生には憧れの人物に直接会いたいという願望はなく、寧ろ会ってイメージが壊れてしまう事に不安があったが、オサリヴァンは思い描いていた通りの人柄で、音楽観から私生活における信条、育児の問題等、共通項を発見し*109、その素朴な生活スタイルも想像と違わず良かったと述べている。ちなみに、来生えつこ曰く「2人は変わり者同士」との事である*110

オサリヴァンの2人の娘も、満足に言葉が通じない来生を温かく迎え、土産の任天堂のゲームボーイを喜んだという*111。また、オサリヴァンの愛犬は人懐こくて大人しく、撮影時には決して邪魔をしなかったが、合間には遊びに飛んで来たという*112

同年10月20日に初来日したオサリヴァンは約1週間、来生と共にスケジュールをこなし、テレビ番組やラジオでの共演も果たした(「テレビ・ラジオ」参照)。また、東京は赤坂のステーキハウスで会食をし、その際は来生えつこが通訳を務めたが、後で聞き間違い、言い間違いが分かり、恥ずかしい思いをしたと述べている*113

翌1992年、再来日を果たしたオサリヴァンは、同年2月にコンサートを開催した。当初、ステージでの共演の提案が関係者からなされていたが、来生はオサリヴァンのステージを観客として堪能したいとの思いがあり、断っていた。しかし、観覧後に楽屋を訪れたところ、オサリヴァンから「Can't Think Straight/ぼくときみのラヴ・ソング」をデュエットしたい旨を告げられ、来生は僅か2日後に行われるコンサート(『GILBERT O'SULLIVAN JAPAN TOUR '92』)での共演を承諾したという*114

一夜の夢〜歌手デビュー20周年

1995年7月21日、歌手デビュー20周年記念として、東京はNHKホールにおいて『来生たかお 20周年Special Concert ベストセレクション 浅い夢から』を開催した。この公演の一部は映像作品『TAKAO KISUGI LIVE 浅い夢から』に収められている。また、既出のオリジナルアルバム『浅い夢』〜『永遠の瞬間』が復刻され、企画アルバム『夢より遠くへ -melodies & stories-』『KISUGI TAKAO SONGS』がリリースされた。

集結した豪華アーティスト〜歌手デビュー25周年

2000年11月10日、歌手デビュー25周年記念アルバム『Dear my company』をリリース。大橋純子中森明菜薬師丸ひろ子とのデュエットに加え、作家陣に、井上陽水忌野清志郎、尾崎亜美、永六輔、柚木美祐を迎える等、特別の1枚となった。

新たな挑戦〜弾き語りコンサート

2001年、『Stand Alone』と題したピアノの弾き語りコンサートを初めて開催した。以降、フルバンド編成と共に恒例のスタイルとなる。それまで通常のバンド形式やトリオ編成、オーケストラとの共演等、様々なかたちでコンサートを演って来たが、ソロのステージは演っていないと思い、それが偶々歌手デビュー25周年の時期に重なったという*115。来生は、今の時代に聴きたい音楽がないという思いがあり、同じように感じている人達に、自分らしい楽曲、メロディーをじっくり聴いて貰いたいと述べている*116。なお、サポートメンバーに迎えたステージでも『Stand Alone』の一環として捉える場合がある。最初から最後まで1人切りで、ずっとゆったりとした雰囲気のまま勧められる為、冒頭の挨拶では観客に対して「ちょいとしんどいかも知れません」と語るのが常になっている。

こんなシンプル不器用な男が〜歌手デビュー30周年

2005年、歌手デビュー30周年記念コンサートツアー『来生たかお 30th Anniversary Concert Tour 2005 avantage アヴァンタージュ』が開催され、12月26日、東京は中野サンプラザにおいて行われた『来生たかお 30th Anniversary X’mas Concert Tour 2005 avantage アヴァンタージュ』の公演は、映像作品『TAKAO KISUGI 30th Anniversary X'mas Concert 2005 avantage』に収められている。


キーワードは「ひたすらに」〜歌手デビュー35周年

2010年末、『来生たかお 35th Anniversary Concert Stand Alone 2010 Chiristmas Color』が開催され、翌2011年、歌手デビュー35周年企画コンサートツアー『来生たかお 35th Anniversary Concert Tour 2011 ひたすらに』が開催された。更に、オリジナルアルバム『ひたすらに』をタイトルに冠したコンサートツアーが2011年にスタートした。

20011年7月1日、歌手デビュー35周年記念として、東京はサントリーホールにおいて『来生たかお 35th Anniversary Solo Live Premium Stand Alone 2011』を開催した。前2010年の夏、事務所のマネージャー兼社長から、歌手デビュー35周年であり、且つソロライヴを初めて10年の節目でもある事から、サントリーホールでの公演を持ち掛けられた。来生は当初、クラシックコンサートが主体である同ホールに立つ事に迷いもあったが、先々の事柄に承諾を出してしまう性格である為、実現に至った。また、引き受けてしまった事に対する不安と後悔で、公演当日まで戦々恐々としていたという*117。なお、当日の模様は映像作品『Takao Kisugi 35th Anniversary Solo Live Premium Stand Alone 2011 at Suntory Hall』に収められている。

そして隠居志願〜歌手デビュー40周年

歌手デビュー40周年を記念し、2015年12月19日に皮切りに全国7箇所で『40th Anniversary 来生たかお Symphonic Concert 2015-2016 夢のあとさき』を開催した。フルオーケストラとの共演によるコンサートツアーは、1988年に行われた『来生たかお With フルオーケストラコンサート STÉLLA』以来になった。

また、コンサートツアーに先駆け、2016年の秋で音楽活動を休業する旨を発表した*118。その理由として、歌手デビュー35周年の頃から袋小路に陥り*119、また、趣味に興じていても、頭の片隅には仕事の事があり、気になって集中出来ない状況を挙げ、「休業」というよりは「休養(気力や体力を養う)」をしたい旨を強調した*120。ただし、その期間は1年程度である事を改めて強調した*121

2016年7月3日から9月25日までの3ヶ月間、デビュー以来、初めての試みとして、週一のラジオ番組『THE MUSIC OF NOTE 来生たかお ノスタルジーへの誘い』のパーソナリティーを務めた。当初、FM COCOLOからのオファーを即座に断ろうと考えていた来生だったが、幼少期から聴いて来た良い歌を紹介してみたいという願望を抱いており、今後、実現の機会はもう巡って来ないだろうと思い直し、番組内の選曲と、局側の台本ではなく自ら筆を執ったエッセイ風の原稿の朗読及びその内容の一任を条件に承諾した*122

2016年10月30日、『来生たかお 40th Anniversary Acoustic Tracks 2016 夢のあとさき』の最終日において、前以って予告していた通り暫く活動を休止する旨を発表した。その際、活動再開時まで自身の事を忘れないで欲しい旨を言い添えた。


*1 『mc Sister』1983年7月号“話していい友 VOL.3 ひろ子ちゃんは無条件にかわいい子ですねえ”(婦人画報社/1983)
*2 テレビ朝日系『Music & Talk あの曲この人』第3回(1996.05.18)
*3 テレビ朝日系『徹子の部屋』(1991.05.22)
*4 来生たかお Concert Tour '84 Romantic Cinematic』のツアーパンフレット
*5 TOKYO FM『大江千里のLive Depot』Vol.182(2004.12.09)
*6 FM愛知『NDS presents 高嶋ちさ子 Gentle Wind』(2011.04.08)
*7 来生たかお 20th Anniversary Concert Tour '95〜'96 夢より遠くへ』のツアーパンフレット
*8 『週刊文春』1991年5月16日号“語りおろし連載 第286回 行くカネ 来るカネ「四十歳を迎えたシンガーソングライター 新しい音楽を作って儲けようという気は全然ない」”(文藝春秋社/1991)
*9 ベストCD-BOX『来生たかお作品集 Times Go By』付属冊子“来生たかお×来生えつこ”(2001.05)
*10 コンサート(2005)のMC
*11 NHK-BS2特番『スーパースターライブ「日本で一番、憂鬱でハッピーな一日」 -井上陽水シークレットライブ-』(1999.12.10)/NHK総合特番『井上陽水 secret Live 遊んであげる 今日だけ』(1999.12.26)
*12 復活! 来生たかおトークセッション第二弾(2015.12.12)
*13 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.30
*14 来生たかお 20th Anniversary Concert Tour '95〜'96 夢より遠くへ』のツアーパンフレット
*15 来生たかお Concert Tour '84 Romantic Cinematic』のツアーパンフレット
*16 『月刊歌謡曲』1982年5月特大号“特集I 来生たかお”(ブティック社/1982.05.01)
*17 来生たかお Concert Tour '84 Romantic Cinematic』のツアーパンフレット
*18 来生たかお Concert Tour '82 夢の途中…』のツアーパンフレット“ビートルズ世代のメロディー・メイカー”
*19 ベストCD-BOX『来生たかお作品集 Times Go By』付属冊子“来生たかお×来生えつこ”(2001.05)
*20 テレビ朝日系『Music & Talk あの曲この人』第3回(1996.05.18)
*21 来生たかお Concert Tour '82 夢の途中…』のツアーパンフレット“ビートルズ世代のメロディー・メイカー”
*22 『YOUNG SONG』1985年3月号“人気作家インタビュー 第9回 ぼくのベスト・コレクション 来生(きすぎ)たかお 少年の心を忘れずに作りたい”(集英社/1985.03.01)
*23 『週刊文春』1991年5月16日号“語りおろし連載 第286回 行くカネ 来るカネ「四十歳を迎えたシンガーソングライター 新しい音楽を作って儲けようという気は全然ない」”(文藝春秋社/1991)
*24 来生たかお 20th Anniversary Concert Tour '95〜'96 夢より遠くへ』のツアーパンフレット
*25 『サンデー毎日』1992年8月2日号“この母にして… 今週の母――来生ユキ子(68)”(毎日新聞出版/1992)/石村博子著『この母にして…』(毎日新聞出版/1993.06.25)
*26 『FUSE』1991年“INTERVIEW 〜よりノスタルジックに…〜”(?/1991)
*27 来生たかお 20th Anniversary Concert Tour '95〜'96 夢より遠くへ』のツアーパンフレット
*28 ベストCD-BOX『来生たかお作品集 Times Go By』付属冊子“来生たかお×来生えつこ”(2001.05)
*29 『目利きや!8』“第1回 宗像和男さん”(メディアプルポ)
*30 コンサート(2007)のMC
*31 復活! 来生たかおトークセッション第二弾(2015.12.12)
*32 『YOUNG SONG』1985年3月号“人気作家インタビュー 第9回 ぼくのベスト・コレクション 来生(きすぎ)たかお 少年の心を忘れずに作りたい”(集英社/1985.03.01)
*33 『YOUNG SONG』1985年3月号“人気作家インタビュー 第9回 ぼくのベスト・コレクション 来生(きすぎ)たかお 少年の心を忘れずに作りたい”(集英社/1985.03.01)
*34 『YOUNG SONG』1985年3月号“人気作家インタビュー 第9回 ぼくのベスト・コレクション 来生(きすぎ)たかお 少年の心を忘れずに作りたい”(集英社/1985.03.01)
*35 ベストCD-BOX『来生たかお作品集 Times Go By』付属冊子“来生たかお×来生えつこ”(2001.05)
*36 小椋佳トリビュートコンサート 夢歌詩、あるところに』(2008.05.31・06.01)のMC
*37 テレビ朝日系『徹子の部屋』(1991.05.22)
*38 復活! 来生たかおトークセッション第二弾(2015.12.12)
*39 テレビ朝日系『Music & Talk あの曲この人』第3回(1996.05.18)
*40 『週刊文春』1991年5月16日号“語りおろし連載 第286回 行くカネ 来るカネ「四十歳を迎えたシンガーソングライター 新しい音楽を作って儲けようという気は全然ない」”(文藝春秋社/1991)
*41 小椋佳トリビュートコンサート 夢歌詩、あるところに』(2008.05.31・06.01)のMC
*42 来生たかお 20th Anniversary Concert Tour '95〜'96 夢より遠くへ』のツアーパンフレット
*43 40th Anniversary 来生たかお Symphonic Concert 2015-2016 夢のあとさき』のMC
*44 ベストCD-BOX『来生たかお作品集 Times Go By』付属冊子“来生たかお×来生えつこ”(2001.05)
*45 来生たかお 30th Anniversary X'mas Concert Tour 2005 avantage アヴァンタージュ
*46 コンサート(2005)のMC
*47 テレビ朝日系『Music & Talk あの曲この人』第3回(1996.05.18)
*48 テレビ朝日系『Music & Talk あの曲この人』第3回(1996.05.18)
*49 オムニバスアルバム『KITTY CONNECTION 20th century Vol.1』(2013.03.06)のライナーノーツ
*50 小椋佳トリビュートコンサート 夢歌詩、あるところに』(2008.05.31/2008.06.01)のMC
*51 テレビ朝日系『Music & Talk あの曲この人』第3回(1996.05.18)
*52 オムニバスアルバム『KITTY CONNECTION 20th century Vol.1』(2013.03.06)のライナーノーツ
*53 40th Anniversary 来生たかお Symphonic Concert 2015-2016 夢のあとさき』のMC
*54 『GORO』1983年3月24日号“MUSIC STREET スペシャル・トーク 来生たかお VS 河合奈保子”(小学館/1983)
*55 『GALZ LIFE』1979年12月号“ヒット・チャートの裏側で 歌手・来生たかおの場合”(主婦の友社/1979)
*56 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.16
*57 『GALZ LIFE』1979年12月号“ヒット・チャートの裏側で 歌手・来生たかおの場合”(主婦の友社/1979)
*58 テレビ朝日系『Music & Talk あの曲この人』第3回(1996.05.18)
*59 『報知新聞』“悪友親友こう言う録”(1991.05.23)
*60 中川右介著『角川映画 1976‐1986 日本を変えた10年』(KADOKAWA/2014.02.21)
*61 『報知新聞』“悪友親友こう言う録”(1991.05.23)
*62 『FLASH』2013年8月20日・27日合併号“『セーラー服と機関銃』スクープ秘話 薬師丸ひろ子「カ・イ・カ・ン」はいかにして生まれたか”(光文社/2013.08.06)
*63 テレビ東京系『そして音楽が始まる』(2002.09.01)
*64 来生えつこ著『夢の途中に』(リクルート出版/1990.10)
*65 NHKラジオ第1『音楽夢倶楽部』(1999.11.20)
*66 『FM fan』東版 1989年2月20日号“薬師丸ひろ子 対談 来生たかお”(共同通信社/1989)
*67 文化放送『さだまさしのセイ!ヤング』(1982.02.20)
*68 来生たかお Concert Tour '84 Romantic Cinematic』のツアーパンフレット
*69 文化放送『さだまさしのセイ!ヤング』(1982.02.20)
*70 小椋佳トリビュートコンサート 夢歌詩、あるところに』のMC
*71 テレビ朝日系『Music & Talk あの曲この人』第3回(1996.05.18)
*72 NHK-BShi『シブヤらいぶ館 シング・シング・シング』(2006.09.28)/NHK-BS2(2006.10.05)※来生たかおと大橋純子が共演したこの回は、同年9月の衛星放送制作センター長賞を受賞している。
*73 『GORO』1983年3月24日号“MUSIC STREET スペシャル・トーク 来生たかお VS 河合奈保子”(小学館/1983)
*74 『週刊ポスト』2013年7月19日・26日号“孤独の研究 中森明菜とその時代”(小学館/2013.07.08)
*75 『週刊女性セブン』2013年5月30日号(VOL.20)“あの日に帰る名曲物語 第76回シンガーソングライター:来生たかお編”(小学館/2013.05.16)|『週刊ポスト』2013年7月19日・26日号“孤独の研究 中森明菜とその時代 第1回 ”(小学館/2013.07.08)
*76 『週刊ポスト』2013年7月19日・26日号“孤独の研究 中森明菜とその時代 第1回 ”(小学館/2013.07.08)
*77 『週刊ポスト』2013年7月19日・26日号“孤独の研究 中森明菜とその時代 第1回 ”(小学館/2013.07.08)
*78 『週刊ポスト』2013年7月19日・26日号“孤独の研究 中森明菜とその時代 第1回 ”(小学館/2013.07.08)
*79 テレビ朝日系『Music & Talk あの曲この人』第3回(1996.05.18)
*80 来生たかお Concert Tour '84 Romantic Cinematic』のツアーパンフレット
*81 テレビ朝日系『Music & Talk あの曲この人』第3回(1996.05.18)
*82 テレビ朝日系『Music & Talk あの曲この人』第3回(1996.05.18)
*83 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報(1983.12?)
*84 『週刊現代』2012年6月30日号の“週現『熱討スタジアム』第20回『美空ひばり』に魅せられて”(講談社/2012.06.18)
*85 テレビ朝日系『徹子の部屋』(1991.05.22)
*86 NHKラジオ第1放送『ごごラジ!』(2016.07.27)
*87 来生たかお Concert Tour '83 ミディアム気分で…』のツアーパンフレット
*88 ニッポン放送制作『中村こずえのみんなでニッポン日曜日!』(2014.03.02)
*89 40th Anniversary 来生たかお Symphonic Concert 2015-2016 夢のあとさき』のMC
*90 来生えつこ著『わたくし的生活』(講談社/1991)
*91 コンサート(2007)のMC|『週刊現代』2012年6月30日号の“週現『熱討スタジアム』第20回『美空ひばり』に魅せられて”(講談社/2012.06.18)
*92 ファンクラブ「TAKAO CLUB」のダイジェスト会報『DECADE』(1984)
*93 ファンクラブ「TAKAO CLUB」のダイジェスト会報『DECADE』(1984)
*94 PAUL MAURIAT JAPAN TOUR 1984』のツアーパンフレット(1984)
*95 PAUL MAURIAT JAPAN TOUR 1984』のツアーパンフレット(1984)
*96 来生えつこ著『わたくし的生活』(講談社/1991)
*97 FM愛知『NDS presents 高嶋ちさ子 Gentle Wind』(2011.04.08)
*98 NHK-BS2特番『スーパースターライブ「日本で一番、憂鬱でハッピーな一日」 -井上陽水シークレットライブ-』(1999.12.10)/NHK総合特番『井上陽水 secret Live 遊んであげる 今日だけ』(1999.12.26)
*99 川瀬泰雄、吉田格、梶田昌史、田渕浩久著『ニッポンの編曲家 歌謡曲/ニューミュージック時代を支えたアレンジャーたち』“第一章 楽曲のアルチザン、編曲家 星勝”(DU BOOKS/2016.03.01)
*100 テレビ朝日系『徹子の部屋』(1991.05.22)
*101 NHKラジオ第1『音楽夢倶楽部』(1999.11.20)
*102 キティサークル公認ファンクラブ「TAKAO CLUB OSAKA」の会報『I Will...』No.30(1991.12)
*103 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.19
*104 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.19
*105 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.19
*106 来生たかお Since 1976 Concert Tour FROM NOW』のツアーパンフレット
*107 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.19
*108 来生たかお Since 1976 Concert Tour FROM NOW』のツアーパンフレット
*109 来生たかお Since 1976 Concert Tour FROM NOW』のツアーパンフレット
*110 NHKラジオ第1『音楽夢倶楽部』(1999.11.20)
*111 来生たかお Since 1976 Concert Tour FROM NOW』のツアーパンフレット
*112 来生たかお Since 1976 Concert Tour FROM NOW』のツアーパンフレット
*113 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.19
*114 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.21
*115 『音楽専科 SOUND PEOPLE』創刊号“PEOPLE IN PEOPLE 良質なメロディをじっくり聞かせたい”(2001.11.25/音楽専科社)
*116 『音楽専科 SOUND PEOPLE』創刊号“PEOPLE IN PEOPLE 良質なメロディをじっくり聞かせたい”(2001.11.25/音楽専科社)
*117 同コンサートのMC
*118 来生たかお オフィシャルサイト『復活! 来生たかお トークセッション 第一弾』(2015.10.01)/エフエム世田谷『三浦和人とドクター弘美の心デトックス・ナイト』(2015.11.13)
*119 40th Anniversary 来生たかお Symphonic Concert 2015-2016 夢のあとさき』のMC
*120 エフエム世田谷『三浦和人とドクター弘美の心デトックス・ナイト』(2015.11.13)
*121 来生たかお40周年記念アルバム 来生たかおセルフカバーベスト「夢のあとさき」発売記念ミニライブ&握手会』のMC
*122 来生たかお 40th Anniversary Acoustic Tracks 2016 夢のあとさき』(2016.09.10/2016.09.11)