プロフィール


来生たかお大百科

※原則的に、来生たかおは“来生”に省略、来生えつこは“来生えつこ”と表記。

アーチスト面

概要

控えめ且つノスタルジックで心温まる楽曲で知られる屈指のメロディーメーカー。その多くはマイナー調であり、淡々としていながら叙情漂うそのメロディーと、ほとんどビブラートの掛からない囁くような歌唱は「来生節」と称される。また、歌手活動と同時に、姉である来生えつことのコンビを主軸に作曲家としても活動しており、日本ポピュラー音楽史上に残るスタンダードナンバーを送り出している。一般的な肩書はシンガーソングライターだが、担当しているのは歌唱と作曲であり(自作曲の幾つかは編曲も担当)、そういう意味では「歌手兼作曲家」と表するのが正確である。また、実の姉弟によるソングライティングチームはあまり類例がなく、特にデビュー当初は夫婦に間違えられる事が多かったという。

音楽性とポリシー

来生は、自身の音楽の基本はノスタルジーであり、熱愛の頃をふと思い出すようなものを作って来たという*1。デビューアルバム『浅い夢』から最新作に至るまで作風はほとんど変わらず、普遍的な心地好さの中にセンチメンタルなもの、哀愁があるものを作りたいと語っている*2。また、歌手よりも作曲家に向いていると語る一方で、自作品の細かなニュアンスを一番知っている自分自身でも歌いたいとも述べている*3

夢の途中」「セーラー服と機関銃」がヒットした頃、凝った楽曲を生み出すギルバート・オサリヴァンを引き合いに、日本のフォークソング系の歌手は音楽的な勉強が足りない旨を指摘しているが、そんな中で井上陽水や山下達郎は立派だと語っている*4。2002年には「自分はまだ良い曲が作れていると思っている。そう感じられなくなったら辞める」と前置きをしつつ「今、同世代のアーティストが作っている曲は駄目。なんでこんな退屈な曲を作って歌っているのかと思ってしまう。昔の曲の方が断然良い」と力説している*5。2007年には自身よりも年長の岡林信康が歌う姿を観た時はそのパワフルさに刺激を受けた旨を語っていたが*6、後年に70代の加山雄三が歌っている姿を観た際は、自分にはとても無理だと吐露している*7

2003年から傾倒し始めた映画監督の小津安二郎と自身との共通点について、おこがましい事と断りつつ、何処にでもある日常を淡々と静かに描く作風がワンパターンと批判された際の小津の発言「豆腐屋の自分にはステーキやハンバーグは作れず、兎に角良い豆腐を作るだけ」(大意)に共鳴し、自作品もデビュー曲から全く変わらないが、ワンパターンというのは素晴らしい事だと述べている*8


音楽事始め

ザ・ベンチャーズの影響で14歳の時にギターを始め、17歳の頃に曲作りを始めた*9。当時、えつこの友達が実家にやって来てはよくギターで洋楽のフォークソング(ピーター・ポール・アンド・マリーの「500マイル」等)を歌っていたが、時には自作曲も披露しており、それを羨ましく聴いていた事が何よりも先に曲作りのきっかけになったという*10。当初はザ・スプートニクス*11やザ・ベンチャーズを代表するインストゥルメンタルものが好きだったが、音楽の聴き方が変わり、最初にヴォーカルに耳が行くようになったという*12。また、荒木一郎や弾厚作(加山雄三)等、日本のシンガーソングライターの影響もあった事を明かしている*13

来生の母によれば、学校の成績が芳しくなかった来生に大学生の家庭教師を付けたところ、来生はその家庭教師からギターを習い、友達とバンドの練習を始めたという*14。来生と楽器店に同行し、夫に内緒でギターやアンプを買い与えた母は、「とても上手に弾いていた」と語っている*15。ちなみに、東京サウンド株式会社が製造した「グヤトーン」は*16、アンプ込みで9800円くらいだった*17。コピーバンドを組んだ来生は、「マスダ」という友達の家でよく演奏をしていたが*18、ザ・ベンチャーズのノーキー・エドワーズのテクニックに敵う訳もなく、将来ギタリストになりたい等とは思わなかったという*19

姉の来生えつこがノートに書き留めていた散文に勝手に曲を付けた事が姉弟での曲作りの原点で、やがて次々に浮かぶメロディーに詞が追い付かなくなると、来生がギターでワンフレーズを口遊み、えつこが目の前でそれに合わせて歌詞を書くというかたちに移行した*20。このスタイルは姉弟が別々に暮らすようになるまで続いた*21

18歳の頃、来生えつこと共に処女作「サラリーマン」を含むレコードを10枚以上自主制作し、文化放送やニッポン放送へ持ち込んだところ、斉藤安弘の『オールナイトニッポン』で取り上げられた*22。朝の5時頃に来生えつこと共にその放送を聴き、感動したという*23。一方で、ヤマハの音楽プロデューサーだった木下純によれば、「ヤマハポピュラーソングコンテスト」に楽譜で応募して来た来生を落選にした事があるという*24

2、3年間、余り外出もせず曲作りに邁進し*25、バンド仲間等*26、周囲の人間に自作曲を聴かせている内に「もしかしたら音楽でやって行けるのでは」と思うようになった来生は、音楽理論の書籍を読んだり、音大生の友人女性に譜面の書き方を教わったりして勉強をし*27、19歳の頃には、いつかは作曲家として認められるだろうとのんびり構えていた*28。アマチュアの時代には既に100曲程ストックしていたという*29

また、音大生から、本格的に音楽をやるのならばピアノをやった方が良いとのアドバイスもあり*30、20歳の時に「おたまじゃくし(音符)として書き留めたい。曲作りの幅を広げたい」との思いで近隣の個人教室で子供と交じりながらピアノを習い始めた。週1回のレッスンを週3回にして貰い、自宅では紙鍵盤で練習、3ヶ月でバイエルを終わらせ、約1年半の教室通いの後は独学でこなした*31。そんな来生に母はピアノを買い与えたという*32。ピアノを始めるきっかけの1つとして、ザ・ビートルズの「Let It Be」を挙げている。イントロを聴いた時に「これくらいなら自分でも弾けるかも知れない」と思ったという*33

曲作りの実際

ほとんどの楽曲はメロディーが先に作られ、歌詞は後から付けられるが、中には「Goodbye Day」のように先の例もある。来生としては、歌詞は先でも後でも構わないが、前者の場合は歌詞の内容や字数等を考慮する必要がある為、特に自演曲の場合は先にメロディーを作る方がやりやすいと語っている*34。また、曲作りに関しては自信がある為、来生えつこが何を言おうが自分の意見を押し通すという*35

なお、自分で歌詞を書かない理由に関しては、アマチュア時代に井上陽水から作詞を勧められたものの*36、いざ書いたものを貶されてしまい、きっぱり止めたと語っている*37

作曲において、頭の中にきっかけになるフレーズが浮かぶ事はあるが、メロディーは自然に出来上がっては行かず、「作ろう」という気持ちになって部屋に篭もるという*38。楽曲は一応1日で形になるが、翌日から手直しを始め、2、3日に1曲のペースで完成させるという*39。楽曲によっては短時間で出来たものもあるが、概ね数日から数週間くらい掛かるものもあると述べている*40

頭から順番に作って行く場合がほとんどで、イントロが浮かぶと割と良い曲が出来上がるが、4小節程度作って上手く行かない時は翌日に回すという*41。また、作曲は「技術」であり、自分の「引き出し」からイメージを持って来て組み合わせる為、特定の情景を思い浮かべて作る事はないと語っている*42

自演曲の場合は、一挙に作り上げるという事は滅多になく、部分的に出来たものを暫く放置し、他の曲作りをしつつ完成させて行くという。散歩中に走る電車を遠目で見て「ああ、生きてるんだな」と感じたり、車窓から田舎の風景を見たりした時に創作意欲を掻き立てられる事もあり*43、そういう時や就寝の前に浮かんだメロディーを録音したり譜面に起こしたりする*44。5分で作れと言われれば作れるが、大抵は録音しておいたものを客観的に聴いてみて、おかしな部分を直すという作業をするという*45

最初のモチーフから自分のイメージ通りの「良い曲」にするのは難しく、中には7年くらいかけて作った楽曲「不幸色のまなざし」も存在する*46。また、締め切りのぎりぎりまで完成していない事が多い。或る程度のモチーフは出来ているものの、いざ完成させる段になってモチーフ自体がイメージと違うと気付き、徹夜になる事もあると明かしている*47。ちなみに、夢の中で作曲をしている事もあり、とても良い曲が出来たと感じつつも目が覚めると思い出せないのだという*48

「矢倉銀」というペンネームで幾つかの自作曲の編曲を手掛けている。当初は作曲家としてのペンネームとして考えていた*49。レコーディングには基本ヴォーカルでのみ参加しているが、自ら編曲を手掛けた楽曲の中にはピアノやエレキピアノで参加しているものもある。

自作品の出来に落ち込んだり恥ずかしくなったりする為、コンサートの選曲の時以外は滅多に聴き返す事はない*50。中には「難しい曲を作ったものだな」と感心したり*51、「何でこんなに難しいんだろう。もっと簡単に作れないのか」と思ったりする作品もあるが*52、オリジナルアルバム『余韻』に収録されたカヴァー曲を聴くと、自らの手による楽曲はとても敵わないと感じるという*53

コンサートで変えられる部分を改良し、決められた時間の中で録音したものよりも完成度が高い状態にしているが*54、自分の作品が後世まで残って欲しいとは思わないと述べている*55

提供曲の場合は、メロディーにある程度音を重ねたデモテープを作り、作詞家が依頼主の要望に沿った歌詞を付け、それに来生が歌を入れて渡す流れになる。人気のある人物に提供する場合に一生懸命やるのは当たり前で、埋もれてしまうような小さな仕事こそ丁寧にやろうを心掛けており*56、これは棋士の米長邦雄が語る、消化試合でも全力を尽くす事で運が舞い込むという持論の影響だが*57、提供歌手が新人故に音域が広くない易しいメロディを要望される事もあり、その時は少々欲求不満になるという*58。また、音楽一筋の歌だけで勝負する歌手が好きな為、音楽以外の仕事に手を出している人物に楽曲を依頼されても思い入れが湧かず、無難なもので良いという気分になってしまうと述べている*59。提供歌手が歌ったものは、思いの外良い事もあればその逆もあるという*60

提供曲の依頼は来生作品でイメージチェンジを図りたいアーティストからが多いという*61。当初はアルバム曲の依頼が多く、しばたはつみの「マイ・ラグジュアリー・ナイト」や三浦友和の「ほほえみの扉」等しか代表曲と呼べるものがなかったが、「夢の途中」「セーラー服と機関銃」の大ヒットでシングル曲を含めて依頼が殺到した*62。それ以前は自分で納得する作品が出来てもまずシングル曲に選ばれなかったが、それが変わり、確実に楽曲を浸透させられる良い状況になったという*63。年間100曲以上作っていた時期もあり、時に「来生はマンネリ」と揶揄される事もあったが、「夢の途中のような曲を」との注文を付ける依頼も少なくなかった為、自然と似たようなコード進行になってしまったと吐露している*64

楽曲提供を希望する歌手として井上陽水の名を挙げ*65 、壮大なバラードのようなものを作りたいと述べており*66、実際に井上をイメージして作られた楽曲(「夜の底へ」「真昼のくらやみ」等)もある。2000年にリリースしたオリジナルシングル「地上のスピード」で共作(作詞:井上陽水/作曲・歌唱:来生たかお)は実現しているものの、楽曲提供は実現していない。また、じっくり腰を据えて好きなアーティストのアルバムの全収録曲を手掛けてみたいとも述べており、井上陽水美空ひばり山口百恵の名前を挙げているが*67、こちらも実現していない(実現したのは桃井かおり三浦友和平井菜水)。

作曲は自分の才能を削って行く仕事なので、いつもその削れた部分を埋めて行く(才能を補充する)為、クラシック、スタンダード、最新のポップス等、常に音楽に浸るように心掛けているという*68。若い頃は意外性に富んだメロディーを作りたいという思いが強かったが*69、「ムーン・リバー」や「上を向いて歩こう」等、一見誰でも作れそうなシンプルなもの程、究極の楽曲だと述べている*70

また、長年の曲作りで身に付けたのは、上手く怠けるコツだという*71。自演曲の場合は、スケジュールにある程度の融通が利く故に期日が迫ってから困る事があるが、提供曲の場合は音域やテンポ等を含めて制約がある為、却ってやり易いとも語っている*72

打ち込みによる曲作りは、1996年に購入したMacを使い、PAのスタッフ(高橋、中島)の手を借りながら一日掛かりで録音をしたのが初めてだが*73、締め切りの直前まで作業をしない為、なかなか使いこなすまでには至らず*74、自らはピアノやベース、ドラムやストリングス等の楽器を弾き、それをオペレーター(2000年代以降はパソコンに詳しいバックバンドのRYUMEI)に整理して貰ってデモテープを作っている*75。譜面も、細々とした作業をする為、清書まで手書きで行っているという*76

最も使用するコードは「m7-5(マイナーセブンスフラットファイブ)」と「ディミニッシュコード」で、哀愁や優しさがあるからだという*77。また、楽曲の2、3箇所に好みのメロディーがあれば納得出来るが、最大のヒット曲になった「夢の途中」には1箇所(「抱いていたいけど」の部分のメロディー)にしかその部分がなく*78、あまり自信がなかったという*79

1980年代前半から暫くは自宅から自転車で5、6分の場所に仕事場を借ていたが*80が、それ以降は、1984年に購入した自宅の地下が仕事場になっており、午前9時か10時頃に起床し、夜の7時頃まで曲作りをするという生活スタイルだという*81。日本レコードセールス大賞作曲家部門において年間売上第2位を獲得した1982年頃から作曲数が格段に増し、翌年の1月、2月だけでも40曲の依頼を引き受け、午前朝9時から午後8時まで作曲に専念してもまだ時間が足りず、テレビ番組(フジテレビ系『夜のヒットスタジオ』)に出演した際も、楽屋にエレキピアノ(カシオトーン)を持ち込み、焼きそばを食べながら仕事をしていたという*82

レコーディング

当初は立って歌っていたが、上手く行かなかった為、それ以降は基本的に座って歌っている*83。作曲をする時もステージで歌う時も大抵ピアノの前に座っているからか、立つと不安になるという*84。実際に、テレビ東京系『そして音楽が始まる』(2002.09.01)のレコーディング風景では、座って「グレイ」を歌う場面が映されている。

ステージ

これまでにグランドピアノ、エレキピアノ、アコースティックギター、エレキギターを担当して歌った事があり、2001年からはピアノの弾き語りのみの公演も試みめている。以前は楽器を弾きながら歌う事が専らだったが、徐々にマイクを片手に歌う機会が増えるようになった。しかし、観客の出入り等、余計な事が気になってしまう為、楽器を弾きながらの方が歌に集中出来るという*85。また、観客の声援も気になってしまい、「ター坊」という掛け声に思わず演奏の手が止まってしまった事があるという*86

ロックコンサートであれば多少のミスは大丈夫だが、来生のステージは静かな為、少しのミスでも目立ってしまい、元々人前で歌うのが得意でない事もあり、緊張から声が震えたり、歌詞を間違えたりするという*87。ちなみに、大きく間違えた時は、基本的に最初から歌い直す。

デビュー当時、特に弾き語りでステージに立つ場合は、前の晩から眠れず、一切食事が摂れなかったという*88。また、コンサートツアーの1、2週間前になるとよく同じ夢をよく見る事を明かしている。開演間際にも拘わらず何も準備が出来ておらず、訳も分からずに出鱈目に歌い出すと客席からブーイングが起きるという内容だという*89。開演前のベル(1ベル)で袖に待機するまで戦々恐々で、いざステージ上に出る瞬間、心の中で「えーい、胸突き八丁でぇ」と叫ぶが*90、これまでに上手く行ったコンサートはないと語っている*91。また、緊張を緩和する最後の手段は煙草だという*92

以前は拒否していた日本武道館でのコンサートは、歌手デビュー15周年記念の『来生たかお in 武道館 アコースティックスペシャル』で実現させたが、もし東京ドーム公演の依頼があってもきっぱりと断ると述べている*93

テレビ出演の心境をよく「寿命が縮む」という言葉で表現している*94。歌手デビューの翌月にはもうTBS系の音楽番組『サウンド・イン"S"』に出演する事になり、しばたはつみ、世良譲トリオ、タイム・ファイブ等、錚々たる面々と共に7、8分のメドレーを行うことになったが、失敗したら頭からまたやり直しになるという極度の緊張感を味わい、実際に1回ミスをしてしまった事で*95、その光景が今でも夢に現れるという*96

緊張を理由にコンサート会場からの中継を辞退した事もあり*97、番組の本番を待っている時に雑誌のインタビュー等がある方が気が紛れて良いと述べている*98。一方で、テレビ出演は精神面の強化にもなるので、試練、挑戦として受け止めているとも語っている*99

夢の途中」「セーラー服と機関銃」のヒット以降、音楽番組への出演依頼が増えたが、圧倒的な数の人間が観ていると思うと満足に歌えず*100、テレビの事を考えるともうこれ以上ヒットして欲しくないと語っている*101。この3年くらい前までは、プロモーションの手段として効果的なテレビに出て売れたいという気持ちがあったが、なかなか出して貰えず、地道にコンサートをやろうと考えていた*102。しかし、急に忙しくなった来生は、地味な自分を期待しているファンの事を考え、あまりに露出が増えると新鮮さがなくなってしまう事を危惧し、戸惑ったという*103。また、テレビでは「自分の音」が出ないという理由で出演を断るアーティストの気持ちは解るが、来生自身は割り切って考えた方が良いと語っている*104

コンサートの為に歌詞を覚える際は、まず一通り紙に書き、これを何日も繰り返していると頭の中に漢字の位置等がインプットされ、その後は散歩をしながら口遊むと語っている*105

デビュー当初からMCでの口数は少なく、初ステージでは台本を用意していたが*106、2012年にヘルニアを発症し、ステージでの演奏曲目を減らした事をきっかけに、それ以降はMCの時間が多くなり、MC専用のサロンチェアやサイドテーブル、メモを置く譜面台が必需品になった。MC中に話したい事柄を失念し、その後の演奏中に思い出して歌に影響するという事が起きた為、予め台本を用意するようになったという*107


音楽的自己評価

音楽における自身のレベルを評価した事があり、その際に軍人の階級を用いながら「歌唱力」「(ピアノの)演奏力」「音楽的知識」は「下士官」、「作曲(楽曲)」のみを「佐官」としている*108

プライベート面

身体

  • 1995年のデータ*109
    血液型:O型/身長:165.8cm/体重:60.5kg/足のサイズ:25.5cm/視力:両目とも1.5
  • 2015年のデータ*110
    血液型:O型/身長:165.7cm/体重:67.5kg/足のサイズ:25.5cm

若い頃は痩せ型だったが、40代から60代に掛けて約20キロ太ったという*111。50歳を過ぎてから間食をするようになり*112、その半ばには結婚指輪が食い込んで外せなくなり*113、やがて腹囲が93センチ、ズボンサイズが28センチくらいになったが*114、2015年に人間ドックを受けたところ、体重が7キロくらい減っていたという*115

髪型に拘りはなく、ステージに上る際も自分で軽くムースで整える程度で、衣装と共に10分程度で完了してしまうという*116。『来生たかおライヴ Much more...』に収録された「夜の底へ」のイントロには、楽屋で準備をする映像が挿入されている。音楽評論家の富澤一誠によれば、MCが苦手な来生が頭を掻くとその度に髪の毛が逆立ち、客席から忍び笑いが漏れたという*117。また、文化放送の公開番組に出演した際、寝癖のまま現れた来生を見たマネージャー(岩瀬貞行)は大急ぎでブラシを買い求め、どうにか髪を整えたが、番組終了後にやって来た女性ファンは、母性本能を擽る寝癖がなかった事を残念がっていたという*118。フジテレビ系『森田一義アワー 笑っていいとも!』の「テレフォンショッキング」に出演した際、松任谷正隆から電話越しに「髪の毛が立ってる」と指摘された事がある*119。テニスに熱中していた1980年代後半、プロ選手のミカエル・ペルンフォルスの影響で短髪にしていた頃も、癖毛を抑える為にスーパーハードのムースを使用していた*120

また、2008年に小椋佳のトリビュートコンサート『小椋佳トリビュートコンサート 夢歌詩、あるところに』に出演した際、小椋はすっかり白髪になった来生に驚きつつ、自身は髪の量が減った為「髪があるだけ良いです。やっかみです」と会場を沸かせた*121


体質

頭を洗っても洗わなくても頭垢がよく出て、同時に髪を掻き上げる癖がある為、或る時、頭垢が服に落ちるのが気になって麻雀に集中出来ていない事が判り、それ以来、麻雀の時は頭垢が目立たない色の濃くない服を「勝負服」としているという*122

幼少の頃以外は蚊に刺された記憶がなく、夫婦で犬の散歩に出掛ける際に、完全防備の夫人に対して来生はTシャツに半ズボン姿だが、蚊が止まっても血を吸わずに去ってしまうという*123。この体質は若い頃からで、来生曰く、血液がアルカリ性か、単に不健康で蚊に好まれないかも知れないという*124。ちなみに、子供は刺されるという*125

性格

自身の性格を対人恐怖症気味と評している通り、テレビやラジオ出演時のトークは苦手で、基本的に寡黙で淡々としている為、司会者や出演者にその点をつっこまれたり気を遣われたりする事も珍しくなく、姉弟が揃ってメディアに出演する時は来生えつこが積極的に喋る傾向にあり、家を一歩出ると大人しくなると述べている*126

また、厭世的で、ニヒリズムが漂い、自身曰く「善い事をしないが、悪い事もしない」*127。年齢を重ねてからは、無理をすると翌日に何も出来なくなる為、明日出来る事を今日やる必要はないと思うようになり*128、この信条は自伝的趣向の楽曲「夢の途中譜」の歌詞にも反映されている。

好きな色は、「白いは七難隠す」の白色*129、と黒色*130。好きな花は、淡い緑色の掌状葉に淡紅色の花が咲く酔芙蓉*131。好きな匂いは、愛犬“マル”の鼻にキスをする時の匂い*132

事故が不安な為、なるべくなら飛行機に乗りたくないと述べている。「夢の途中」のヒット以前は仕事が忙しくなかった為、コンサートで北海道へ行く場合でも船で前乗りをしていたが、ヒット以後はスケジュールの都合で乗らざるを得なくなってしまったという*133。行きも帰りも飛行機で訪れる場合、帰途もまた乗らなければならないと思うと気分が落ち込むが、万が一事故が発生した場合に「死の直前の姿」を噂されないよう、現地では普段と違う振る舞いをしないように心掛けているという*134。同じ理由で、飛行機に乗る直前に何気なく掛けた電話が「最後の言葉」になってしまう事に抵抗がある為、家族には電話をしないが*135、逆に言えば、家族と同乗する場合は一緒に死ぬことになるので問題はないという*136

携帯電話やパソコン(インターネット)等のテクノロジーに乗り遅れた口で、現代人はそういったものに振り回されているように見えるものの、便利さは理解しており、全否定はしていないという*137。ちなみに、所有する携帯電話は、いつしか電池カバーを紛失してしまったが、不自由をしない為、そのまま使用し続けている。しかし、スマートフォンに買い替えた妻が自慢気にLINE(ライン)等をしている為、自分も買い換えを思案している旨を明かした事がある*138

お笑い芸人の小島よしおと誕生日(11月16日)が同じと知り、急に親近感が湧いたと述べ、また、生後10ヶ月だった孫がテレビを観て一番喜ぶのは小島だと話した事がある*139。また、お笑いグループの我が家が面白いと発言している*140

人生観

30代の頃、思想家である岸田秀の「全ては幻想である」という主張に衝撃を受け、コンサートのMCでしばしば氏の思想について触れる。後年、駄目元で自ら岸田と連絡を取り、オフィシャルホームページの企画「来生たかおトークセッション」の第3弾で対談を実現させている(岸田秀著『官僚病から日本を救うために 岸田秀談話集』〈新書館/2009.05〉に収録)。また、好きな言葉は「色即是空、空即是色」と語り*141、「前向き・プラス思考という言葉は好きではない」「年を取るとピュアな恋愛なんて不可能」等、ネガティブな発言も少なくない。一方で、「幸せとは?」と問われた時は「一言では言い表せない事」と答えている*142

「大きな野望・小さな野望」との問いを投げ掛けられた折りは「昔から大きな夢も野望もない」と前置きをしつつ、強いて言えば、大きな野望は「かみさんと車で日本全国の温泉巡り」、小さな野望は「タクシーの運転手」と述べている*143。子供の頃の夢は畳屋の職人だったが*144、ミュージシャンになっていなかったら、昔から憧れていたサラリーマンになっていただろうと述べている*145。また、吉本隆明の言う「労働=人間の価値は嘘」という価値観に共鳴し*146、生まれ変わるとしたら人間以外なら何でも良いとも語っている*147

50代の頃は、手相において「生命線」が短い為、長生きは出来ないと思っていたが、長生きをして老境を味わってみたいという気持ちと、老い耄れまで生きたくないという気持ちが同居している旨を述べ*148、朝起きた時に心の中で「生きているんだな」と呟く事があり*149、60代になると「明日出来る事は今日するな」「階段は手摺りをしっかり握って下りましょう」を座右の銘とし*150、敬愛する作家である山口瞳の「僕は死にたくない」「死ぬのが怖い」という発言に実感が持てるようになり*151、「全てにおいて薄ぼんやりしている」、「朝起きた時から疲れている」*152、「腰が痛くて靴下を履くのが大変」*153、「後何回オリンピックを観られるか」*154、「10メートル先の歩行者用信号機の青が点滅していても、昔のように走らず諦める」*155、「健康じゃないけど病気はしない」*156等、ネガティブな発言を頻発させている。

女性観・恋愛観

初恋は小学校3年生の時、同じクラスの人気者が相手だった*157。ただし、別のインタビューでは、小学校5年生の時に転校して来た、女優の浜美枝に似た医者の娘で、学級委員を務めていたという*158。中学生の頃は専らグループ交際で、高校時代に初めて2人切りでデートをしたが、事前に何処で待ち合わせて何処へ行くか等の計画を立てて映画鑑賞をしたが、ずっと緊張していた為、疲れた事しか覚えていないという*159

自分の意志や意見を持っている強い女性が好みのタイプで、演歌に描かれるような女性は苦手と発言しており*160、オリジナルアルバム『余韻』でカヴァーをした「今日でお別れ」に描かれている、気遣いから男性のネクタイを直してあげるような女性は苦手だという*161。ふくよかな女性が好みで、芸能人では佐久間良子*162、春川ますみ*163、三原葉子*164の名を挙げている。相手が好意を示さなければ自らアプローチする事はない為、大失恋の経験はない*165。浮気はせず、性欲はない方が良いとも語っている*166

エピソード

幼少期

来生えつこによれば、幼少期はぼうっとした子で口が遅く、何度訂正しても「えんぴつ」を「いちんぷ」、「きなこ」を「こなき」、「あぶく」を「ぶくわ」、「おひる」を「おへる」と表現する等、幾つかの単語を間違えて覚えていたという*167。来生自身は「いちんぷ」の記憶はないが「こなき」と言っていた事は覚えているという*168

幼稚園に入園する際、入り口で地団太を踏んで泣きじゃくり、行きたくないと母親に訴えたという*169。このエピソードは、自伝的作品の「夢の途中譜」に描かれている。

他人の家に遊びに行くのは子供心に気を遣うので、大抵は自分の家に友達を呼んでいたが、基本的には一人遊びが好きだった為、居留守を使う事もあったという*170

小学3年生まで暮らしていたのは東京都駒込で、父親が務めていた三菱商事の社長宅内にあった門番用の借家から洋風の大邸宅を羨望の眼差しで眺めていた為、「家」には執着があると述べている*171。社長宅の前は竹藪のある広い空き地で、絶好の遊び場だったが、小学2年生の頃、病床でふと空き地を見たいと思い、塀の前に積み重ねてあった板に乗ったところ、それが崩れ、突き出ていた釘で3針を縫う怪我を負い、その時の傷跡は今も右腿の内側に残っているという*172。また、家の裏手にあった六義園も遊び場で、隠れん坊や鬼ごっこに興じていた一方、庭で一人でチャンバラごっこをしていた*173

次に引っ越した田無市の「ひばりが丘団地」時代は、戦時中の米軍のトラック、ジープ、ブルドーザーの残骸が積まれた原っぱや牧場、畑、肥溜め等が記憶に残っているという*174

極普通だった学校の成績の中で体育だけは「4」を取る程活発だったが*175、基本は内弁慶で、その傾向は成人してからも変わっておらず、都会っ子の脆さを持ったシャイな人間だったという*176。苛められっ子ではなく、仲間内ではボスの次に友達が多かったが*177、姉にはプロレスごっこで苛められ*178、自伝的楽曲「夢の途中譜」では「何度も脱臼させられた」と歌われている。


青年期

高校時代は煙草、麻雀、パチンコに明け暮れ、一番楽しい時代だったと述懐している*179。息子を大学へ進学させたかった母親が家庭教師を付けたお蔭で高校時代は成績は上がったが、基本的には勉強嫌いで、大学に進学したのもあくまで両親の意向であり、音楽の方面で忙しかった来生は次第に授業に出席しなくなり、中退してしまった*180

嗜好

煙草

大の愛煙家で、煙草とコーヒーがなければ曲作りが出来ないとまで語っている。

煙草は16歳から吸い始め*181、よく徹夜マージャンをしながら吸い殻を山盛りにしていたという*182。1982年からのハードスケジュールにより、1984年に自宅の玄関先で倒れ*183、不整脈と診断された事から*184、銘柄を『ハイライト』から『セブンスター』に替えたものの*185、1990年のインタビュー*186では日に約60本吸う事を明かしており、1997年のラジオ番組では「健康のために吸っている。止めたらガン細胞が動き出して肺がんになる。どうせ死ぬわけだし、危険を遠ざけて生きるのはつまらない」として、日に約80本は吸うと述べている*187。その後、2016年にはその数が40本に減っている*188

コンサートのMCでは、喫煙をし難くなっている世の風潮に意を唱えている。持論として、煙草が嫌われるのは、不健康だからではなく、煙による汚れが原因で、物事には良い面と悪い面があり、悪いだけのものならばとっくに消え去っている筈で、最も体に悪いと明言する「仕事」のストレスを癒してくれる、「一病息災」で例えるならば自分にとっては煙草が「一病」だと語っている*189。病院で健康診断を受けた際には、どの医師からも禁煙を勧められるが、却って煙草を擁護したくなり、大病でも患わなければ止めないと述べている*190

ちなみに、ステージでの緊張を緩和する最後の手段は煙草で*191、アンコールの前に一旦袖に捌けて一服するのが習慣だが、全面禁煙の会場ではステージに戻る時間が早くなり勝ちで、来生自身もしばしばその事に言及している。

コーヒー

好きなコーヒーはモカ*192、キーコーヒーのアイス*193や、キャラバンコーヒーのアルミパックの加糖のアイスで、ミルクと砂糖は欠かせず*194、1日に15杯から20杯は飲むという*195。コンサートのステージ上にもコーヒー(と白湯*196)がマグカップで用意されており、歌の合間に口にする*197。なお、企画アルバム『[[]LABYRINTH]]』のレコーディングでフランスのパリを訪れた際は、陰鬱だった同地の思い出の中で、エスプレッソが美味だった事は忘れられないと述べている*198

食性

雲丹、イクラ等の高級な食材は食わず嫌いの傾向にあり、コンサートツアーで各地を回る時も名産に興味が持てず、普段から納豆や味噌汁*199、ラーメン、炒飯、スパゲッティ(ナポリタン)*200、バターと醤油を掛けた白飯、ファミリーレストランの「そこそこの味」ではないハンバーグ、かつ丼等を好むという*201。魚*202やレバー、筋子も苦手で*203、来生えつこからは「味覚は子供の頃と変わってない」と揶揄された事もある*204。ただし、35歳からテニスをやっていた期間は、その心地好い疲労感のお蔭で色んな食べ物への欲求が高まったという*205

自宅での食事は一汁一菜(ご飯、味噌汁、おかず1品)で構わず、夫人が色々と作ると「おかずが多い」と怒るという*206。また、好きな味噌汁の具は豆腐だという*207

おでんは、幼少期から竹輪麩が好きで、屋台のおでん屋の中では安い具材だった為、よく食べていたという*208。また、結婚が決まって現夫人の故郷を訪れた際、夫人の姉の家で食事をする事になり、食卓にカレーライスと共におでんが並べられてとても驚いたが、いざ食べてみると相乗効果が生まれて美味しく、それからは来生家の定番の組み合わせになったという*209

ラーメンは、昔ながらのオーソドックスな醤油味が好きだという*210。特に「長浜ラーメン(福岡県博多市)」、「徐州楼(宮城県仙台市)」、「ホープ軒本舗吉祥寺店(東京都武蔵野市)」のラーメンがお気に入りで*211、「生姜ラーメン みづの(北海道旭川市)」*212や「バリバリラーメン(埼玉県新座市)」*213も美味しい店として挙げている(「徐州楼」や「みづの」(1986.10.16)の店内には来生のサイン色紙が飾られている))。美空ひばりが歌の本番前にチャーシューメンを食べると聞き、それを真似た時期があった(ただし、チャーシューメンがあまり好きでない来生は普通のラーメンにしていた)*214

蕎麦は、自伝的内容の楽曲「夢の途中譜」で歌われているように「掛け」が好きで、海苔が苦手な為「盛り蕎麦」よりも「笊蕎麦」を好むという*215(後の記述では「盛り蕎麦」も好きな食べ物として挙げている*216)。

寿司は、中トロと玉子の握りがあれば構わないと発言している*217

元々は下戸だったが、1985年にテニスを始めたのをきっかけにビールが飲めるようになり*218、通常の食事の際にも注文までになったという*219

趣味


野球

中学時代に陸上部で長距離をやっていた他はスポーツに縁がなかったが、「夢の途中」のヒット以降、多忙を極め、不整脈が出て倒れてしまった。体力的に危惧を感じた来生は、1984年に来生えつこが作った野球チーム「ビコーズ」に参加するようになった*220。また、自らもツアーメンバーと共にバックバンドと同名の野球チーム「スタートル」を結成し、各地の放送局やイベンターのチームと試合をしたが、1勝も出来なかったという*221

基本的にはプロの試合観賞が専らで、読売巨人軍や東北楽天ゴールデンイーグルスのファンで、贔屓のチームが負けると食が進まずプロ野球ニュースを全く観ないほど機嫌が悪くなるが、逆に、勝つとほとんどのスポーツニュースを観ると語っている*222。やがてメジャーリーグの方が面白くなり、2004年に苦手なタイプの堀内恒夫*223が読売巨人軍の監督に就任し、同軍が低迷した事をきっかけにアンチになった*224

テニス

1985年の夏、35歳でテニスを始める。毎年レコーディングをしていた伊豆スタジオの近隣にテニスコートがあり、新たに担当した若いディレクターに誘われたのがきっかけだったという*225。やる前は軽く考えていたが、ラケットにボールを当てられても相手のコートには入らない悔しさと、ジャストミートした時の快感から、その翌晩からは2時間もプレイする程、ハマって行く事になる*226。また、30歳を過ぎて体力の衰えを感じるようになり、無理をして倒れてしまった事、子供と怪獣ごっこ等で遊ぶのが辛く感じていた事、そして「同じ事(曲作り)を繰り返しながらも、常に新しいもの(楽曲)を創り出す」作業に対して情熱を持続させるのが難しく感じていた事が、テニスに夢中になった要因と自己分析している*227

オートテニスに通い、ビデオや本で研究し*228、やがて、来生えつこの仲介により、山口昌男を中心としたテニスサークル「山口組」に夫婦共々参加し、栗本慎一郎や村上龍等とプレーしていたという*229。また、棋士の田丸昇や高橋道雄ともテニス仲間で、プロテニスプレーヤーの福井烈に相手をしてもらった事もあるという*230。本人曰くプロ級の腕前で*231、ラケットスポーツ誌の「平成2年度芸能人テニス腕前番付」においても「雨さえ上がればコートに出る熱中ぶり」で「東」の「張出大関」にランクインした事がある*232

コンサートツアーの合間にマネージャーやバックバンドのメンバーと共にテニスに興じていた時期もあり*233、ファンの集いがテニスツアーになる程だった*234。曲作りが中心の時期も、「1日1曲」というノルマを課し、2曲作れれば翌日はテニス、3曲作れれば翌日、翌々日はテニスという算段をしており*235、1987年には232回プレイしたという*236

愛用のラケットは、腕前の向上と共に10数本を経た後、プロ選手から頂戴したアシックスやプリンスの特注品になり、シューズは側面に緑色の3本線が入ったアディダス製で、同じ物を3足所有し、コートの中だけでなく、普段からTPOに合わせて履いていた*237。ちなみに、プロ選手のミカエル・ペルンフォルスの影響で自らも短髪にした*238

また、最初はコーラや缶コーヒーで水分補給をしていたが、プレイ後にビール(バドワイザー)を口にするようになり、それまで全くの下戸だったにも拘わらず、通常の食事の際にも注文までになった*239。心地好い疲労感のお蔭で、食事の欲求が高まり、寝付きも良くなったという*240。更に、テニスの効果で歌うのが楽になり*241、5年から10年は歌手生命が伸びたと感じたと語っている*242

ただし、ここまで熱中したテニスも45歳の時にぱったり止めている*243

将棋

楽曲の売り込みをしていたアマチュア時代、毎日のように近所のプロ志望の男児を相手にしたり、道場に通ったりしていた*244。22、23歳の頃にアマチュアの初段と対戦して全く手も足も出なかった事が将棋にのめり込むきっかけになり、負けたくないという思いで将棋本を買い漁り、研究をしたという*245。「居飛車」を得意としており、東久留米の将棋クラブで米長邦雄や田丸昇等と対戦した事もある*246井上陽水と対戦した際は勝ったという*247。音楽の仕事が忙しくなってからは10年以上、遠ざかっていたが*248、テレビゲームでも専ら将棋や麻雀を楽しみ*249、テレビでプロの対局を観戦するのも好きだという*250。なお、自作曲の編曲に携わる際は、将棋に因んだ「矢倉銀」というペンネームを使っている。

麻雀

小学校3年生で「ひばりが丘団地」に引っ越した時、北海道のギャンブル好きな従兄が大学進学を機に居候をする事になり、父親や姉とやり始めた*251。最もやっていたのは高校時代だが、キティレコードの社員としてインスペクターをやっている頃も周囲に麻雀好きが多かった為、よく興じていた*252。多賀英典の発案でキティレコードの事務所にたまたま居合わせた小椋佳井上陽水と共に4人で囲んだこともあり*253、松任谷正隆や松任谷由実ともよく卓を囲んでいた*254。また、麻雀をやる時には「勝負服」があるという*255。なお、麻雀や将棋に関して、オフィシャルホームページの企画(来生たかおトークセッション第1弾「麻雀」(2005)、第2弾「将棋」(2005)、復活! 来生たかおトークセッション第1弾(2015)))でプロを交えた対談を行っている。何度も一緒に卓を囲んだ事のあるコンサートプロモーターによれば、来生はとても強く、懐が深く、潔く、男らしいので、気持ちが良いという*256

パチンコ

16歳くらいでやり始め、高校を早退すると煙草を吹かしながら徹夜でやっていたという*257。18歳で一旦は止めたものの*258、その後はパチンコの儲けで自宅の風呂を改築した事もあった*259。1995年には『CR黄門ちゃま2』にハマったという*260

コンピューターゲーム

かつては「スペースインベーダー」や「ゼビウス」等のアーケードゲームも好きで、コンサートツアー先でもゲームセンターに足を運んでいた*261。「スペースインベーダー」は松任谷正隆の影響だった*262

競馬

長らく興味がなかったが、2015年には趣味の1つとして挙げており、広い競馬場を歩くのは良い運動になるのではないかと語っている*266

映画

幼少時はチャンバラ映画が全盛の頃で、大川橋蔵が好きだった母親に連れられ、毎週3本立ての映画を観ていたが、劇中で斬られたら本当に死ぬと思っていた来生は、翌週の映画に同じ俳優が出て来る事が不思議だったという*267。また、映画で覚えた台詞を諳んじながらチャンバラごっこをしていたと述べている*268。また、大川橋蔵と共演していた美空ひばりを観て、「大人になったら結婚するんだ」と言っていたという*269

苦手な映画のタイプとして、「超越的(あり得ない)設定」「サクセスストーリー」「お涙頂戴」「濃厚なラヴシーンがあるもの」の4つを挙げている*270

もし映画を作るとしたら、1972年に起きた「あさま山荘事件」の銃撃シーンを撮りたいと述べている*271。また、もし出演するならば、アメリカ映画『俺たちに明日はない』『ゲッタウェイ』のような極悪人なのに格好良い犯罪者の役が良いと語っている*272

2003年の小津安二郎生誕100周年をきっかけに、それまでほとんど関心がなかったその作品に一気に傾倒する。コンサートのMCやテレビ番組への出演時に映画を話題にする事があるが、その中でも同監督作品はよく登場する。鎌倉にある生前の邸宅や墓前*273、NHK総合『SONGS』に出演した折りには、晩年に仕事場として使用していた長野県は蓼科の別荘「音無荘」にも足を運んでいる。また、アルバムのデザインワークにその雰囲気を反映させている他、歌手デビュー30周年記念アルバム『avantage』には同監督の作品『長屋紳士録』(主演:飯田蝶子)で笠智衆が歌ったのぞきカラクリの唄「不如帰(ほととぎす)」を基にした「夢の途中譜」を収録している。また、コンサート会場では、開演前のBGMとして劇中曲を流している。

※「来生たかお推薦コンテンツ」内の「映像(映画・ドラマ) 」も参照の事


読書

心理、思想、哲学関係では、岸田秀、丸山圭三郎、竹田青嗣等の書籍を好む*274。また、米長邦雄や羽生善治等の対談本やエッセイ、棋士を描いたドキュメントや小説等、趣味の将棋に関する書籍も愛読している*275。好きな作家として他に、向田邦子、山口瞳、川本三郎、半藤一利、小沼丹の名を挙げている*276。元々寝付きが悪い事もあり、就寝の前に読書をするのが日課で*277、その際に読めない漢字や知らない言葉が出て来ると辞書で調べるという*278

※「来生たかお推薦コンテンツ」内の「書籍」も参照の事

犬の散歩

散歩の最中にメロディーを考えたり、歌詞を諳んじたりする事があるという。東京都内にある小金井公園を散歩コースの1つにしており、園内の売店で販売しているコロッケがお気に入りとの事で*279、同売店では一時期「来生たかおさん推薦コロッケ 1個100円」との謳い文句が使われていた。

その他

1980年代後半、スタッフはコンサートの後によくビリヤードで遊んでいたが、1988年の1月(?)それまで不参加だった来生が偶々やってみたところ、それ以降、泊まり掛けのコンサートの時は食事もそこそこにプレイするようになった*280。また、1989年頃(?)、来生家ではトランプのページワンをよくやっており、その影響で一緒に遊ぶようになったスタッフがコンサート後に急遽トランプを購入しに行く事もあった*281

素潜りをやっていた時期があり、1986年は伊豆や屋久島に潜ったという*282。また、編曲家の松井忠重に誘われ、実家のある茨城県大洗町で1度だけ釣りをした事があるが、寒い時期に小舟で沖まで出た為、海に向かって用を足す羽目になったと回顧している*283

自動車

愛車は、10代の頃から好きだった『ミニ・クーパー』で*284、運転をするのならばこれと決めていたという。また、来生えつこのボーイフレンドが乗っていた「スバル360」も好きだったという*285

折りに触れ、免許証を取得したい旨を口にしていたが、将来的にはもっと楽に取得出来るシステムになるだろうと考え、専ら夫人の車の助手席に陣取っていた。一方で、早く取得して親子でドライブをするのが夢だとも語っている*286。免許証を持っていなくて良かった事、困った事を訊かれた際、前者は加害者にならない事、後者は家族旅行をした時に夫人から嫌味たっぷりに「運転、代わって」と言われた事と述べている*287

1999年の夏、たまたま井上陽水の誘いで食事をした際に「まだ免許取ってないの? 取らなきゃ駄目だよ」と言われ、夏休みの時期が過ぎれば教習所は空くであろうし、50歳を過ぎたらもう取得する事はないだろうと考えていた為、これが大きなきっかけになり*288、49歳で一念発起をして一発合格を果たした。ちなみに、井上も長らく車の運転をしなかったが、1991年に免許を取得している。

来生は、この会食の数日後には自動車学校に通い始めている。とにかく早く絶対に1回で終わらせたいと思った来生は、学科の授業を入れられるだけ入れ、約20日間で所得した。結果が分かった際、あれ程ほっとした体験は久し振りだったと語っている*289

井上は、上記の会食後、来生を帰路の途中まで自分の車で送った事実を引きつつ、万事変化を望まないイメージの来生が運転を始めた意外さに言及している*290。また、オリジナルアルバム『Dear my company』に作詞及びコーラスで参加した際、ミニ・クーパーの座席にギルバート・オサリヴァンのCDケースがさりげなく置かれていた事に気付いたという*291

ちなみに、歌手デビュー20周年の際、スタッフから記念として電気自動車をプレゼントされたという*292

ペット

来生が物心を付いた頃から家に猫が居り、野良も含めて10匹近くが集まった事もあったという。来生えつこが務めていた虫プロ商事の社屋に捨てられていた事から名付けられた“むしぷ”は、既に“ミスボ”“ステネ”という猫がいた為に一旦は来生えつこの知り合いの女性漫画家に引き取られたが、郷里に帰る事になった為、来生家で飼われる事になった。“むしぷ”は発育に問題があり、何とか妊娠はしたものの死産で終わるなど、来生は面倒を見る事が多かったが、それ故に特別な猫だった。その後も“ヌル”という猫も加わり、長年に亘って猫に接して来た来生はかなり猫に詳しくなったという。ちなみに、“ミスボ”は友達から引き取った時に雨に濡れてみすぼらしかった故に名付けられ、“ステネ”は捨て猫の略称だった*293。来生は特技の1つとして「蚤取り」を挙げている時期があった*294

1985年頃、来生えつこが東京都の鷺宮に在住していた頃、隣家が棋士の米長邦雄だった事が縁で雑種の子犬を貰い*295、“ヨネ”と名付けて飼い始めたが*296、1年くらいで突然亡くなってしまう*297。1988年には、1月11日に貰ったという理由で犬に“イチ”と名付けている*298

その後、飼い始めたゴールデンレトリバーは、まるまると太っていた事から“マル”と名付けられ*299、オリジナルアルバム『Another Story』のブックレット等に登場したが、後に肝臓癌を患い*300 、1998年9月16日に亡くなった。来生は、最期に痙攣を起こしたその姿が可愛そうで見ていられなかったという*301 。しかし、シーンとした自宅に帰る度に「本当に居ないんだな」と寂しく感じるようになった来生は、1999年に飼い始めた同犬種に再び“マル”と名付けた*302

来生は、猫を飼っていた頃の癖が抜けないのか、犬を躾ようとしても途中で飽きてしまい、猫可愛がりをしてしまうと述べている*303 。自身の子供に対する時と同様に、人間よりも遥かに自然に近い存在の猫や犬に無理強いをするのが好きではないという*304

また、2002年末(2003年頭?)にはミニチュアダックスフントの“ミミ”も飼い始めた。来生夫妻の寝室で一緒に寝るのが日課だったが、やがて老年に差し掛かった“ミミ”を押し潰し兼ねないと危惧し、夫人は別の部屋で寝る事にしたという*305。また、2階にある寝室へ向かう際、来生に助けを求めるかのように階段の途中で立ち止まって声を出すようになり、その姿を見て涙が出そうになると語っている*306。なお、“ミミ”の姿はオリジナルアルバム『avantage』『ひたすらに』のブックレット等で見られる。

「来生」という苗字

初の提供曲「酔いどれ天使のポルカ」(1974)では、姉弟共に本名の表記「来生悦子」「来生孝夫」を用いていたが、翌1975年の提供曲「うわのそら」「終止符」では「きすぎえつこ」「きすぎたかお」との表記になっている。歌手デビュー後は現在の表記になったが、レコードジャケット(アルバムでは主に帯)には必ず苗字に振り仮名が振られていた。振り仮名が消えるのは大ヒットした「夢の途中」(シングル及びアルバム)からで、一躍メジャーな存在になった事による細やかな変化である(ローマ字による表記はこれ以降も頻発している)。ちなみに、現在の表記に落ち着いた理由について来生は「苗字が読み難いから名前は平仮名にしたら」と言われたと述べている*307

幼少期には苗字に含まれる「きす(=Kiss)」という響きに関してからかわれた事があり*308、来生えつこも同様に苗字に関して様々な苦労をした過去があるという*309。女優の杉田かおるは子供の頃「キスギタカオル」と呼ばれてからかわれた事があったという*310

来生えつこの考察によれば、上杉謙信の家臣であった木次(来次)出雲守(きつぎ・いずものかみ)が来生家の起源であり、武士の身分を捨てた木次が酒田(現・山形県酒田市)に定住する際、「新たな未来を生きる」というような意味合いで「来生」と改名した事に由来するという(姉弟の父親は山形県の出身である)。また、木次の百官名である「出雲」(現・島根県の一部)には、「木次(きすき)」という地名が存在する*311

家族

夫人との出会いは1978年5月12日、石川セリとのジョイントコンサートの会場(調布グリーンホール)の楽屋で、夫人が勤めていた会社の上司が友人である来生えつこに紹介をしたい旨を伝えたのがきっかけだった*312。来生は山形弁とお尻の大きさに魅かれ*313、来生えつこの「28歳が良縁」という占い通りに1979年10月9日に入籍した。プロポーズは「今は音楽より君の方が好きだ」で*314、東京は中野サンプラザで挙式した*315。来生は夫人の事を「ママ」、夫人は来生の事を「お父さん」と呼んでいる*316。また、夫人を花に例えると「都忘れ」で*317、「かみさんはご飯みたいなもの(=飽きない)」と述べている。

音楽評論家の富澤一誠によれば、結婚当時、来生がステージに登場すると客席から祝福の声が掛かり、照れ臭そうに「いやぁ……結婚、しちゃったんです」と応えた来生は、学園祭に招かれて会津若松に向かう電車で6時間も立ちっ放しだった事や、あまり子供を作らない方が良い事等を語ったという*318

元々は子供が苦手で、照れも手伝い、騒がしい他人の子供にどう接すれば良いのか分からなかったが、自分に息子が出来てからは接し方が解って来たという*319。また、結婚や出産を経た事で、それまでの「なんとかなるさ」というずぼらな生き方から、家族の為に頑張る姿勢が生まれたと述べている*320。子供がまだ幼い頃、寝ている時にはピアノやステレオの音に気を遣い、駄々を捏ねる時には録画しておいたNHK教育『おかあさんといっしょ』を観せて気を逸らしていたという*321

音楽的嗜好と影響

The Ventures

中学2年生の頃にザ・ベンチャーズのエレキサウンドに魅了され、ファンクラブに入会している*322。生まれて初めて買ったレコードは同バンドの「十番街の殺人」で*323、1日に何十回も聴いていた*324。テレビ朝日の『モーニングショー』に同バンドが出演すると知り、仮病で学校を休み、オープンリールのテープで録音を試みた事があるという*325。この頃は他に寺内タケシとブルージーンズ等のインストナンバーを好んで聴いており、まだ「歌入り」の音楽に興味を持っていなかった。

The Beatles

ザ・ベンチャーズ等のインストゥルメンタルものに魅かれていた頃は歌が邪魔に感じ、最初はザ・ビートルズが好きではなかったという*326。1966年、同グループの日本公演に足を運んでいるが、これは、同グループのアルバム『Rubber Soul』にこれまでのバンドとは異なる魅力を感じた来生えつこが、その事を弟にも気付かせたいと思い、都合で同行できなくなった友人の代わりに誘ったものだった*327。本格的に熱中し出したのは自身が歌手デビューをしてからの事で、全てのアルバムを買い揃えたが、擦り切れるまで聴いた為、2回買い直し、『Rubber Soul』に至っては3回も購入した*328。特にポール・マッカートニーの作品を敬愛するようになる(リンゴ・スターの名も挙げている*329)。

ギルバート・オサリヴァン

たまたまジャケットが気に入って購入したギルバート・オサリヴァンのシングル「No Matter How I Try/さよならがいえない」や、米軍の放送局「FEN(Far East Network)」で初めて聴いた「Alone Again(Naturally)」*330「Clair」等に、探し求めていたものに出会えたという意味で大きな衝撃を受け、オサリヴァンを「大明神」と称する程に崇める事になり、その楽曲(特に「Clair」)をモチーフに作った楽曲も多く、またその初期のスタイルを模した衣装でアルバムのジャケットを飾ったり、同様の衣装で「Alone Again(Naturally)」「Clair」をカヴァーした事もあり*331、ビジュアル的にも多大な影響が窺えるが、これには「四畳半フォーク」に馴染めず、弟の作るお洒落なポップスのイメージを強く支持していた来生えつこの「長髪にジーンズというスタイルだけは避けたかった」という意向も反映されていると思われる*332

流行歌

来生家がテレビを購入した小学校3年生の頃、井上ひろしが歌った「雨に咲く花」を聴いて愛唱歌になり、その後のコンサートやテレビ番組で幾度となく同曲を披露している。歌詞の一節「ままになるなら」の意味が解らず「お母さんになるのか?」と思った事、井上がビブラートを利かせる時に上下に動く喉仏が面白かった事等、思い出を語り*333、2008年には同曲や、生まれて初めて購入した邦楽のシングル盤「ギターをひこう」(歌唱:加藤登紀子)、平岡精二作品等のカヴァーを収録したオリジナルアルバム『余韻』をリリースし、前述の海外アーティスト以前に昭和歌謡の影響もある事を公言している。実父が好きでよく歌っていた三橋美智也は、日本の男性歌手のベスト3に入るとして、「古城」「達者でナ」「別れの磯千鳥」等をコンサートで披露した事がある*334

美空ひばり

来生はジャズシンガーとしての美空に魅せられており、最も好きな楽曲として中学生の頃に初めて聴いた「Stardust」を挙げ、難しい歌を見事な英語で歌い上げていると称賛している*335。美空と実際に対面したのは、1983年に楽曲提供が実現した際の、美空邸への訪問時、レコーディング時、フジテレビ系『夜のヒットスタジオ』(1983.07.04)共演時の計3回だという*336

その他

好きなアーチストや楽曲として、フランシス・レイ(映画『白い恋人たち』のメインテーマ)、ヘンリー・マンシーニ(「Moon River」)、バート・バカラック(「Raindrops Keep Fallin' On My Head/雨にぬれても」)、エミット・ローズ、マイケル・ジョンソン等を挙げている*337。「無人島に持って行く1曲」を問われた時は、映画『太陽がいっぱい』のメインテーマ(作曲:ニーノ・ロータ)を選び*338、古今東西の楽曲の中で1番好きだと語っているが、別の番組では「Moon River」を一番好きな楽曲としている*339。また、「泣ける曲」としてナルシソ・イエペスの「禁じられた遊び」を挙げている*340

1930年代から1970年代のポピュラーソングやクラシックから刺激を受ける事が多いという*341。上記以外にも、海外のフォークソング(ピーター・ポール&マリー、ブラザース・フォア等)やシャンソン(ジリオラ・チンクエッティ、ボビー・ソロ、シャンソン・ガイヤルド等)、ヴォーカリスト(ディーン・マーティン、パット・ブーン、ドリス・デイ、コニー・フランシス、ジュリー・ロンドン等)、そして日本のグループサウンズ(ザ・ランチャーズ、ワイルドワンズ、ザ・タイガース、サベージ等)の他、ザ・ビーチ・ボーイズ、サイモン&ガーファンクル、ブレッド、バッドフィンガー、ハリー・ニルソン、ランディ・ニューマン、エルトン・ジョン、ビリー・ジョエル、キャロル・キング等を挙げ、シルヴィ・ヴァルタンの「アイドルを探せ/La Plus Belle Pour Aller Danser」には痺れたという*342

クラシックには「何百年も前にこんなに美しいメロディーが作られているのは悔しい」と感じつつ刺激を受けるという*343。好きなクラシック曲には「悲愴」というタイトルが付いているものが多く、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンのピアノソナタ、ピョートル・チャイコフスキーの交響曲等をよく聴いていたという*344

ジャズは苦手だが、フランク・シナトラ、アンディ・ウィリアムス、ナット・キング・コール等の「歌もの」や、リチャード・ロジャース 、コール・ポーター等の作曲家は大好きだという*345

音楽的志向の違いはあるものの、岡林信康の歌声や楽曲(「山谷ブルース」「友よ」「チューリップのアップリケ」等)が好きで*346、年長の岡林が還暦になってもパワフルに歌う姿を見た際には、自身の音楽的なモチベーションが高まったと述べている*347。また、週刊誌から依頼された美空ひばりに関する取材で、その対談相手の候補に岡林の名が挙がっている事を聞き、来生は興味をそそられて承諾したという(実際の対談は、テレビプロデューサーの石井ふく子と行われた)*348

メロディーに関しては、1970年代で出尽くしており、1980年代以降、鳥肌の立つ名曲はほとんどないと語っている*349

80年代はテレビでの露出が多く、浸透度の高いアイドルに上質なものを提供したいという思いがあった*350。来生は、当時のアイドルが封建的で下世話な楽曲を歌わされていると感じており、その例として、近藤真彦の初期作品を多く手掛けた筒美京平は凄い作曲家だが、孤軍奮闘の為「ギンギラギンにさりげなく 」以外に名曲はなく、良い作り手が少ない現状を憂いている*351。ちなみに、山下達郎が作曲した「ハイティーン・ブギ」はかなりの名曲と称えている*352

アーティストの分析

他作家の楽曲には音楽理論的な見地から関心を寄せる事が多い。小林亜星作曲の「ギターをひこう」(歌唱:加藤登紀子)、加山雄三(弾厚作)作曲、歌唱の「君のスープを」等では、その転調の面白さを語り*353、1999年にエルヴィス・コステロが歌った「She」には「好きな1曲で、最初のメロディーは良いが、後半はちょっと残念」という感想を述べ、また、当初は全く新しい曲だと思っていたが、カヴァー(シャルル・アズナヴールによる1974年の作品)だと分かり、がっかりしたという。これは往年のようなシンプルで良い曲が近年に現れたと感激していたからである*354

ギルバート・オサリヴァンに関しては、コード、メロディー、構成が意外な展開を見せる点、ジャズのコードを用いながらポップ調に仕上げる点、1曲の中に多様なエッセンスを贅沢に入れている点等をその魅力として挙げており、自らの声質に合う美しいながらもシンプルなコード進行やメロディーであるポール・マッカートニーの作品より凝っていて*355、専門的な音楽的教養から生み出されるバート・バカラックの作品よりも面白いと分析している*356。更に、ヴォーカルフィーリングや、2拍、4拍を強調するリズミックなピアノ演奏にも言及し*357、独創的なセンスを持った「最後のシンガーソングライター」とも評している*358

関連エピソード

編曲家「矢倉銀」

編曲を手掛ける際に使用するペンネームの「矢倉銀」は、将棋好きの来生が、将棋の戦法(囲い)の1つである「矢倉囲い」と「銀将」を掛け合わせて作ったもので、「夜の底へ」で初登場した。作曲家名として使おうと考えた事もあったという*359。なお、マネージャーやスタッフが来生の行方を捜す際、パチンコ屋に電話を掛けてこの名前で店内放送をして貰っていたが*360、もうこの方法が使えなくなったという*361

ステージ衣装

アルバムジャケット等では、初期のギルバート・オサリヴァンを意識した衣装を着用しており(『By My Side』『遊歩道』『SOMETHING ELSE』等)、ステージでも再現した事がある(『来生たかお マンスリーソロライブ Stand Alone Another Side』)。1990年代まではスーツ姿が多かったが、2000年代以降はベスト着用が定番になっている。

1988年、テニスプレーヤーのペレン・フォースをイメージして髪を短くしたが、オジサン臭くも感じた為、同年のコンサートやテレビ番組(日本テレビ系『24時間テレビ「愛は地球を救う」11』)では伊達眼鏡を着用した*362。また、2014年の公演からは老眼鏡を着用するようになった。

バックバンド

音楽喫茶をメインに活動していた頃は、まだ専属のバックバンドが存在せず、安西史孝、板倉雅一、椎名和夫、佐久間正英、吉田建、平野肇等が機会的にサポートをしていた。

専属のバックバンドは、1982年に「Win 9」という名で結成され、1984年に「スタートル」と改称した後、幾度かのメンバーチェンジを経た。なお、2000年代後半頃からは、ステージのメンバー紹介時に「スタートル」という呼称を用いていない。また、公演によってはイレギュラーなミュージシャンも加わっている。

来生は、バンドメンバーやスタッフの仲人や晩酌人、立会人を務めている。1986年には柿崎洋一郎の仲人*363、1993年にレコーディングプロデューサーの本間一泰が教会で式を挙げた際に立会人を務めている。その披露パーティーでは、新婦の熱望により「浅い夢」を歌ったが、ビールが入っていたからか冒頭の歌詞を失念してしまったという*364。また、同年に執り行われた松田の「2回目」の結婚式でも媒酌人を務め、披露宴では新郎の伴奏で「夢の加速」を、ピアノの弾き語りで「浅い夢」を歌って祝福している(ちなみに、この時は山下達郎もピアノの弾き語りで祝福している)*365。更に同日、作詞家の前田たかひろの披露宴にも登場し、「二人の場所」を歌ったという*366

1976197719781979
バンド名※該当なし
キーボード
(またはピアノ)
?安西史孝*367安西史孝?*368安西史孝?*369
?板倉雅一*370柿崎洋一郎*371
ギター?椎名和夫(アレンジも担当)*372?
ベース?佐久間正英*373??
?吉田建*374
ドラム
(またはパーカッション)
?平野肇*375?


1980198119821983198419851986198719881989
バンド名※該当なしWIN 9スタートル
キーボード
(またはピアノ)
坂下秀美?松田真人
柿崎洋一郎柿崎洋一郎柿崎洋一郎
嶋田陽一田原音彦加藤実
ギター熊木敏郎?法田勇虫鳴海寛荒木博司
ベース小林大介?杉征夫多田文信
ドラム
(またはパーカッション)
五代儀彦秀?村田勝美永田敬一河野道生松本照夫
野口明彦


1990199119921993199419951996199719981999
バンド名スタートル
キーボード
(またはピアノ)
松田真人
加藤実山崎教昌
ギター荒木博司土屋潔土屋潔
立山健彦立山健彦
井上哲也
ベース多田文信多田文信井上哲也多田文信
井上哲也井上哲也
ドラム
(またはパーカッション)
松本照夫吉尾公弘吉尾公弘?吉尾公弘野口明彦松本照夫
井野浦英雄野口明彦上森武美


2000200120022003200420052006200720082009
バンド名スタートル
キーボード
(またはピアノ)
松田真人鹿島伸夫松田真人山崎教昌
山崎教昌
ギター土屋潔土屋潔
小田木隆明
ベース千葉一樹?千葉一樹安田英司
ドラム
(またはパーカッション)
佐藤武美?佐藤武美佐藤武美
佐藤唯史


2010201120122013201420152016
バンド名※バンド名なし
キーボード
(またはピアノ)
山崎教昌山崎教昌山崎教昌
柿崎洋一郎紺野紗衣
ギター塚本史朗RYUMEI
RYUMEI
ベース安田英司藤谷一郎※該当なし
ドラム
(またはパーカッション)
佐藤武美佐藤武美桜井正宏長谷部徹桜井マサヒロ
(桜井正宏)
佐藤唯史
桜井正宏桜井正宏

※来生自身のコンサートに参加したミュージシャンのみを記載(イベントや他のアーティストのコンサートにゲスト出演した際の共演ミュージシャンは含まない)。オーケストラは割愛。
※小田木隆明はアーティスト名を「RYUMEI」に改称

※参加年不明のミュージシャン(レコーディングも含む)=池沢由香子(Piano〈ディナーショー〉)/包国充(Sax)/後藤真和(Bass)/津垣博通(Piano)/都筑章浩(Percussion)/津村泰彦(Guitar/Recording)/柴田英貴(Drums)/常富喜雄(Guitar?)/david koo(Bass)/西平彰(Keyboards)/林仁(Guitar)/マーク・イースト(Guitar?)/みつとみ俊郎(Flute)/山口とも(Percussion〈2001.07〜〉)/渡辺美帆子(Piano)

ファンクラブ

1979年9月27日に最初のファンクラブが発足した。オリジナルアルバム『Natural Menu』のLPの帯でその旨が告知され、以降、LPやCT、CD等で会員が募られた。会報は「キティサークル(キティレコード所属アーティストの総合ファンクラブ)」の総合誌『BACK STAGE PASS』だった。

1981年、ファンクラブ名が「TAKAO CLUB」となり、会報は『HEAD ROCK』に改称され、1984年には会員証が作成された。1988年には、来生専用の会報『égalité』が隔月で発刊され始めた。

1998年7月、ファンクラブ名が「TAKAO CLUB」から「来生たかおインフォメーションデスク」になり、会報も『égalité』から『別冊 来生たかお』に改称され、年4回の発行になった。

2000年1月、ファンクラブ活動及び会報の発行が終了し、以降はオフィシャルサイトで様々な告知がなされるようになった。

1983年6月4日、初めてファンの集いが開催され、1987年には来生がテニスを始めた事でファンの集いがテニスツアーになった。また、1990年代にはシンガポール、グァム、ハワイ等でも行われた。

1990年代の会員募集要項では、年会費は4000円になっており、会員証や会報『égalité』の発行、コンサートチケットの優先販売、ロゴ入りペーパーファイルの進呈等が、入会特典として記載されている。

印税

1991年の発言において、来生たかお名義での売り上げは例年約5000万円で、作曲印税及び歌唱印税が全体の7割を占め、カラオケの著作権印税は1割と語っている*376。また、「これ以上稼いでもほとんど税金で持って行かれるだけ」と述べている*377

楽曲のプレゼント

来生は、関係者等の結婚披露宴に出席出来ない場合、楽曲を贈るという。来生えつこの野球チーム「ビコーズ」のメンバーの時は「いとしい あした」をプレゼントしたが*378、来生えつこのマネージャーの時は、来生えつこ並びに発起人の要望で完全なオリジナル曲を作る事になり、披露宴までにばたばたと作業に取り掛かったという*379。ただ、来生えつこは、メロディーはとても良かったが、いつものように事前にチェックをする人間がいなかった歌詞はそれに負けていると感じたという(この歌詞は、ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.51に掲載されている)*380。また、アルバムへの収録や提供も考えており、「大きいけれど切ない曲調」に合わせて歌詞を書き改める事も考えていた(その後、実現していない模様)*381

幻の楽曲

雑誌のインタビュー等によると、楽曲を提供した(する)アーティストとして、1977年頃に沢田研二、中村晃子*382、1980年代に近藤真彦の名が挙がっているが、該当する作品は見受けられない。

来生は、1988年に6曲入りくらいのミニアルバムを制作する案があり、2分程の単純明快な構成、編曲の楽曲をスタートルの演奏で収録したい旨を述べているが*383、それに該当する作品は見受けられない。

小椋佳によれば、吉永小百合が主演を務めた松竹映画『女ざかり』(1994)の主題歌を共作したが、採用されなかったという*384。来生は、吉永小百合のシングル盤のB面に収録された筈だと語っているが*385、吉永へは1984年に「ひとりに染まる」(作詞は来生えつこ)を提供した以外、上記に該当する楽曲は見受けられない。

クリスマス公演

1988年リリースのオリジナルアルバム『With Time』に収録された「Made In X'mas」は、クリスマス公演の定番曲になっており、曲間や曲終わりでクラッカーや風船(の落下)等の演出が行われている。正式に演出がなされたのはコンサートツアー『来生たかお Concert Tour '94〜'95 Another Story』においてだが、その数年前から一部のファンが自主的にクラッカーを鳴らすようになっていた*386。当初は当惑していた来生やその関係者も次第に演出の一部として積極的に協力を求めるようになっていたが、消防法の絡みから「黙認」というかたちになり、最終的には制作側が用意するようになった*387

紅白歌合戦

1982年、NHKから『NHK紅白歌合戦』への出演の依頼が来たが、出演すると今年で人気が終わりのような気がするのと、大晦日は家でゆっくりしたいとの理由で断ったという*388。因みに、この年の同番組では桜田淳子が「セーラー服と機関銃」を歌っているが、この「代演」は薬師丸ひろ子が学業に専念する為に芸能活動を休止していたからというのが理由らしい。

「音楽」以外の仕事

夢の途中」がヒットした頃、TBSドラマ『2年B組仙八先生』の出演の話が舞い込んだが、音楽以外の仕事をする気にはなれないとの理由で断っている*389。ただし、1998年4月3日に放送されたTBS系ドラマ“柴門ふみ”スペシャル『新・同棲時代』には、台詞はないもののドラマ出演を果たしている。全編を通じて来生メロディが使用されており、また、劇中のライヴシーンでは来生自身も「夢の途中」を歌っている。

また、FM横浜からレギュラー番組(ニューミュージック系アーティストのライヴを収録し、その本人をスタジオに招く内容)の依頼があり、事務所スタッフは盛り上がったが、来生は辞退したという*390

1999年6月、一般公募による宝塚記念の新ファンファーレの選考委員を務めている。同年の7月11日には、宝塚記念が開催された阪神競馬場(兵庫県)内のFM番組に出演し、パドックにおいて斉藤由貴とトークショーも行っている。

取材

デビューして暫くは音楽雑誌の取材が多く、「夢の途中」「セーラー服と機関銃」のヒット以降はそれが一般紙まで広がったが、発言していない事柄が書かれていたり、面白可笑しく曲解されていたりと、その内容に不満を抱くようになり、なるべく取材を受けたくないと思うようになったという*391

アルバムが出来るまで

以下、ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.27に掲載された『Passage』の制作過程を参照にした。

*企画
レコード会社のディレクターと曲調を打ち合わせる。基本的に来生自身が歌いたいと思う感じに落ち着く。

*デモテープ作り
ディレクターから催促や確認の連絡が入る。ディレクターが直接、来生の下へ赴き、デモテープを受け取る。来生邸の玄関の自転車の籠に入れられている事もあるという。まだ歌詞は付いていないが、来生によるハミングが入っている。また、ある程度のアレンジもなされている。楽曲が揃い始めると、ディレクターから「アップテンポの曲が欲しい」等の注文が入る。

*作詞
来生からも意見が出るが、最終的には来生えつことディレクターで詰めて行く。

*編曲
録音日が設定され、編曲家との打ち合わせをする。大体の方向性、テンポ、使用したい楽器等は来生本人から意見が出る。デモテープはある程度アレンジされているので、感じは掴み易いという。まだ楽曲にタイトルが付いていないので、「KISUGI」の頭文字を使って「K-1」「K-2」という通し番号が用いられる。次回の制作時には、再び同様の通し番号が使われる。

*レコーディング
まずは、基本的な楽器を録音する(リズム録り)。同時に来生がメロディを歌い、テンポや感じを見る。この段階では、まだ歌詞が出来ていない事が多い。多くて1日に2曲程度が録音される。翌日以降、ストリングスやシンセサイザー等の楽器を重ねて行く(カブセ)。

ヴォーカルを録音する(唄入れ)。来生えつことディレクターは、直前まで電話やファックスでやり取りをする。通常、3テイク程を録音し、そこからベストテイクを選択する。

*トラックダウン
通称「T.D.」。1つ1つ別のトラックに入っている楽器やヴォーカルの音量、音色を決め、最終的にステレオの2チャンネルにする。

*ジャケット撮影
トラックダウンの段階と同時進行で、撮影場所のロケハン等が行われる。その後、写真選び、デザイン、色校正等が行われる。

*マスタリング
音源の編集作業が行われ、プレス工場へ送られる。

コンサートが開催されるまで

以下、ファンクラブ「来生たかおインフォメーションデスク」の会報『別冊 来生たかお』1998夏の号に掲載された『来生たかお コンサート'98 メロディー・メモリー』のスケジュールを参照にした。

*企画
イベンターからのオファー、または所属事務所自体のプレゼンテーションにより、いつ何処でどういうかたちで行うのかという大枠を決定する。

*スケジュール押さえ
バンドメンバー、スタッフ等に開催場所や日時を連絡する。

*選曲
曲順も含め、基本的に来生自身が決定するが、スタッフ側から開催場所の条件等を考慮した助言が入る事もある。

*アレンジ
以前は、バンドマスターの松田真人が多くを担っていたが、氏の脱退(2008年3月)以降は来生自身の他、キーボードの山崎教昌やギターのRYUMEIも加わっていると思われる。

*リハーサル
参加メンバー皆で原曲のCDを聴き、実際に来生が歌いながら演奏の修正点を改善する。同時に、開幕のタイミング、来生の登場の仕方等の演出、照明、音響等の機材を決定する。

*当日
ステージに地絣(じがすり=舞台上に敷く布)を敷き、ライトバトン(照明を吊るす棒状のもの)に照明機材を吊るし、スピーカーを設置し、客席にはミキサーや周辺機器を運び入れ、スピーカーのチューニング、照明のシュート(当たりを合わせる作業)を経て、リハーサルを開始する。まずはバンドと共に行い、その後、来生は弾き語りの練習をする。本番10分前、それぞれの持ち場に着き、幕が上がる。

物真似・替え歌

伊集院光
TBSラジオ『月曜JUNK 伊集院光 深夜の馬鹿力』(2006.10.16)にて、星泉のパロディで「セーラー服と機関銃」の替え歌を歌っている。

蛍原徹(雨上がり決死隊)
TBSラジオ『水曜JUNK 雨上がり決死隊べしゃりブリンッ!』のワンコーナーで、「セーラー服と機関銃」をワンフレーズのみ替え歌を歌っている。

関根麻里
日本テレビ系『ものまねバトル2006最終決戦 オール新ネタ大感謝祭スペシャル!』(2006.12.18)において、セーラー服姿で「セーラー服と機関銃」を歌っている。

*'城之内早苗''
フジテレビ系『第17回 爆笑!スターものまね王座決定戦スペシャル』(1995.03.28)において、「マイ・ラグジュアリー・ナイト」で歌い、しばたはつみとの共演も行っている。

ビジー・フォー
フジテレビ系『第4回 爆笑!スターものまね王座決定戦』(1988.11.29)にて、グッチ裕三が斉藤由貴、モト冬樹が来生を演じ、「ORACIÓN -祈り-」を歌っている。

その他

兵庫県新温泉町の湯村温泉にある、芸能・文化人の手形を数多く展示した「ふれあい手形散歩道」には、来生の手形も飾られている(柳通り上側、温泉橋〜繁栄橋区間)。

1979年の秋、キョードー横浜が神奈川県横浜市の元町を中心に「横浜らしいアーティスト」というアンケートを集計した際、来生は第6位にランキングしている(第1位:山下達郎/第2位:松任谷由実/第3位:南佳孝/第4位:柳ジョージ/第5位:オフコース)*392

『月刊アニメージュ』が主催する「アニメグランプリ」の「男性歌手部門」で、156票を獲得して第17位にランキングした事がある*393

来生は「日本エイズストップ基金」の協力委員に名を連ねていた事がある。

2006年、林眞須美著/高橋幸春・長冨俊和編『死刑判決は『シルエット・ロマンス』を聴きながら 林眞須美 家族との書簡集』(講談社)と題された書籍が刊行されている。来生は、この本をMCで取り上げて「シルエット・ロマンス」を披露した事がある*394。ちなみに、講談師の神田香織は「シルエット・ロマンスを聞きながら」と銘打ち、「和歌山カレー事件」を題材にした講演を行っている(神田香織著『3・11後を生き抜く力声を持て』(2014.04/インパクト出版会 )に収録)。

歌謡シアター『ラムネ』の舞台シリーズ第3弾『夢の途中編』(2008.11.16〜24/作:広瀬格、板垣恭一/演出:板垣恭一/出演:小西遼生、佐藤美貴 他)で「夢の途中」(小西遼生の弾き語り)、「マイ・ラグジュアリー・ナイト」が歌われた。

東宝映画『だいじょうぶマイ・フレンド』(1983/出演:ピーター・フォンダ、広田玲央名 他)で、劇中に登場する外国人バンドが日本語で「シルエット・ロマンス」を演奏するシーンがある。


*1 『朝日新聞』“基本は変わらずノスタルジー”(朝日新聞社/1995.11.25)
*2 『シティロード』1982年3月号“追っかけインタビュー”(エコー企画/1982)
*3 『朝日新聞』“基本は変わらずノスタルジー”(朝日新聞社/1995.11.25)
*4 『シティロード』1982年3月号“追っかけインタビュー”(エコー企画/1982)
*5 BS-i(BS-TBS)『KISUGI TAKAO STUDIO CONCERT 〜Day by day〜』(2002.02.15)
*6 コンサート(2007)のMC
*7 コンサート(2014)のMC
*8 TOKYO-FM『Live Depot』(2004.12.09)
*9 FM愛知『NDS presents 高嶋ちさ子 Gentle Wind』(2011.04.15)
*10 ベストCD-BOX『来生たかお作品集 Times Go By』付属冊子“来生たかお×来生えつこ”(2001.05)
*11 『月刊歌謡曲』1982年5月特大号“特集I 来生たかお”(ブティック社/1982.05.01)
*12 『月刊 サウンドレコパル』1981年9月号“読者参加企画 レコード名盤選 私の100枚 ボクをうならせた名唱のボーカル・アルバム”(小学館/1981)
*13 BS11『本番前@控室』(2012.11.09)
*14 『サンデー毎日』1992年8月2日号“この母にして… 今週の母――来生ユキ子(68)”(毎日新聞出版/1992)/石村博子著『この母にして…』(毎日新聞出版/1993.06.25)
*15 『サンデー毎日』1992年8月2日号“この母にして… 今週の母――来生ユキ子(68)”(毎日新聞出版/1992)/石村博子著『この母にして…』(毎日新聞出版/1993.06.25)
*16 復活! 来生たかおトークセッション第二弾(2015.12.12)
*17 BS11『本番前@控室』(2012.11.09)
*18 BS11『本番前@控室』(2012.11.09)
*19 復活! 来生たかおトークセッション第二弾(2015.12.12)
*20 『Mac Fan』2006年4月号“Pick Up Artist 来生たかお”(マイナビ/2006.02.28)
*21 『シティロード』1982年3月号“追っかけインタビュー”(エコー企画/1982)
*22 『週刊文春』1991年5月16日号“行くカネ 来るカネ”(文藝春秋/1991)
*23 『Hot・Dog press』1982年12月25日号“HUMAN HOT INTERVIEW 内弁慶メロディ・メーカーはオリコンを毎週愛読しているのだった。”(講談社/1982)
*24 HFM『時の旅人 TIME TRAVELER』(2009.05.11)
*25 『YOUNG SONG』1985年3月号“人気作家インタビュー 第9回 ぼくのベスト・コレクション 来生(きすぎ)たかお 少年の心を忘れずに作りたい”(集英社/1985.03.01)
*26 『高二時代』2月号“JK・INTRVIEW シンガー・ソングライター 来生たかお 音楽は仕事であり、趣味。心地よいメロディーを作りたい”(旺文社/1985.01)
*27 『シティロード』1982年3月号“追っかけインタビュー”(エコー企画/1982)
*28 『YOUNG SONG』1985年3月号“人気作家インタビュー 第9回 ぼくのベスト・コレクション 来生(きすぎ)たかお 少年の心を忘れずに作りたい”(集英社/1985.03.01)
*29 『オリコンWEEKLY』1981年12月25日号“PERSON TO PERSON”(オリジナルコンフィデンス/1981.12.25)
*30 『高二時代』2月号“JK・INTRVIEW シンガー・ソングライター 来生たかお 音楽は仕事であり、趣味。心地よいメロディーを作りたい”(旺文社/1985.01)
*31 RKB毎日放送『ライブやろうぜ!』第31回(2002.07.09)
*32 『Hot・Dog press』1982年12月25日号“HUMAN HOT INTERVIEW 内弁慶メロディ・メーカーはオリコンを毎週愛読しているのだった。”(講談社/1982)
*33 NHK総合『ふたりのビッグショー 来生たかお&渡辺真知子』(1996.04.22)
*34 文化放送『さだまさしのセイ!ヤング』(1982.02.20)
*35 『シティロード』1982年3月号“追っかけインタビュー”(エコー企画/1982)
*36 『Hot・Dog press』1982年12月25日号“HUMAN HOT INTERVIEW 内弁慶メロディ・メーカーはオリコンを毎週愛読しているのだった。”(講談社/1982)
*37 『FMレコパル』1977年11月14日号“Target 少年のゆらめきが……来生(きすぎ)たかお”(小学館/1977)
*38 『YOUNG SONG』1985年3月号“人気作家インタビュー 第9回 ぼくのベスト・コレクション 来生(きすぎ)たかお 少年の心を忘れずに作りたい”(集英社/1985.03.01)
*39 『月刊Big Music』1983年7月号“CITY TALK 来生たかおVS沢田聖子”(講談社/1983)
*40 40th Anniversary 来生たかお Symphonic Concert 2015-2016 夢のあとさき』(2015.12.19)のMC
*41 『月刊Big Music』1983年7月号“CITY TALK 来生たかおVS沢田聖子”(講談社/1983)
*42 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.3
*43 ファンクラブ「来生たかおインフォメーションデスク」の会報『別冊 来生たかお』1999春の号(1999.04.30/ベイシック)
*44 来生たかおオフィシャルサイト“来生たかお30周年記念インタビューavantage”(2005.10.26)
*45 『キーボードマガジン』1997年4月号“DEPARTMENTS 作曲の小部屋/来生たかお”(リットーミュージック/1997)
*46 RKB毎日放送『ライブやろうぜ!』第31回(2002.07.09)
*47 『キーボードマガジン』1997年4月号“DEPARTMENTS 作曲の小部屋/来生たかお”(リットーミュージック/1997)
*48 コンサート(2003年)のMC
*49 『クロワッサン』1995年3月25日号“話をしたい あの本のこと。来生たかおさん◆鼻淵泪ジンハウス/1995)
*50 ニッポン放送制作『中村こずえのみんなでニッポン日曜日!』(2014.03.02)
*51 ニッポン放送制作『中村こずえのみんなでニッポン日曜日!』(2014.03.02)
*52 RKB毎日放送『ライブやろうぜ!』第31回(2002.07.09)
*53 ニッポン放送制作『中村こずえのみんなでニッポン日曜日!』(2014.03.02)
*54 『週刊FM』東版 1983年1月3日号“ニュー・イヤー'83 今年、さらに大きな飛躍が期待できそうだ”(音楽之友社/1983)
*55 来生たかおトークセッション第3弾「岸田秀」(2006.11)(岸田秀著『官僚病から日本を救うために 岸田秀談話集』〈新書館/2009.05〉に収録)
*56 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『HEAD ROCK』1986年8月25日号 Vol.63“TAKAO CLUB VOL.34〈『来生たかお 10th ANNIVERSARY ELEVEN NIGHT THEATER』のMCから抜粋〉”(キティ・ミュージック・コーポレーション/1986.08.25)
*57 40th Anniversary 来生たかお Symphonic Concert 2015-2016 夢のあとさき』(2016.03.19)のMC
*58 『キーボードマガジン』1997年4月号“DEPARTMENTS 作曲の小部屋/来生たかお”(リットーミュージック/1997)
*59 『GORO』1983年3月24日号“MUSIC STREET スペシャル・トーク 来生たかお VS 河合奈保子”(小学館/1983)
*60 RKB毎日放送『ライブやろうぜ!』第31回(2002.07.09)
*61 『GORO』1982年3月11日号“Go Rocking Interview 来生たかお”(小学館/1982)
*62 『GORO』1982年3月11日号“Go Rocking Interview 来生たかお”(小学館/1982)
*63 『新譜ジャーナル』1983年5月号“来生たかお サウンドにノレばポップスってもんじゃないんです”(自由国民社/1983)
*64 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『HEAD ROCK』1986年8月25日号 Vol.63“TAKAO CLUB VOL.34〈『来生たかお 10th ANNIVERSARY ELEVEN NIGHT THEATER』のMCから抜粋〉”(キティ・ミュージック・コーポレーション/1986.08.25)
*65 NHK-BS2『BS日本のうた フォーク大集合'99 南こうせつとアコースティック・フレンズ』(1999.01.31)
*66 『FM fan』1983年8月15日号“FM PROGRAM SPECIAL 来生たかおVS悲愴”(共同通信社/1983)
*67 『新譜ジャーナル』1982年3月号“3 SPOT Interview. 僕はまだまだ“夢の途中””(自由国民社/1982)|『来生たかお Concert Tour '82 夢の途中…』のツアーパンフレット“ぼくはまだまだ“夢の途中””
*68 『YOUNG SONG』1985年3月号“人気作家インタビュー 第9回 ぼくのベスト・コレクション 来生(きすぎ)たかお 少年の心を忘れずに作りたい”(集英社/1985.03.01)
*69 『毎日新聞』“らっこ・アーティスト 来生たかお 余韻で紡いだ40年の夢”(毎日新聞社/2016.04.07)
*70 40th Anniversary 来生たかお Symphonic Concert 2015-2016 夢のあとさき』(2015.12.19)のMC
*71 『FMレコパル』1991年5月13日号“POPS*ROCK インタビュー&レビュー 来生たかお「永遠の瞬間〜モーメント〜」”(小学館/1991)
*72 『FMレコパル』1991年5月13日号“POPS*ROCK インタビュー&レビュー 来生たかお「永遠の瞬間〜モーメント〜」”(小学館/1991)
*73 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.48
*74 TBSラジオ『中村雅俊マイ・ホームページ』(2003.02.11)
*75 来生たかおオフィシャルサイト“復活! 来生たかお トークセッション 第ニ弾”(2015.12.12)
*76 来生たかおオフィシャルサイト“復活! 来生たかお トークセッション 第ニ弾”(2015.12.12)
*77 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.43
*78 『YOUNG SONG』1982年4月号“'82 MUSIC PEOPLE インタビュー 第1回 “3万枚のカベ”を軽くやぶる、突然の大ヒット! 来生えつこ(作詞)と作るFriendly Popsの秘密は?”(集英社/1982.04.01)
*79 NHKラジオ第1『音楽夢倶楽部』(1999.11.20)
*80 『月刊Big Music』1983年7月号“CITY TALK 来生たかおVS沢田聖子”(講談社/1983)
*81 『週刊平凡』1986年2月?日号“吉見佑子のミス・マッチ・トーク シリーズ27 来生たかお”(マガジンハウス/1986)
*82 『オリコンWEEKLY 2月4日号』1983年2月4日号“PERSON 親子でもない。師弟でもない…。さて、美空ひばりと来生たかおの関係は!?”(オリジナルコンフィデンス/1983.02.04)
*83 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.26
*84 『JUNON』1988年8月号“来生たかお、斉藤由貴 北海道、静内の牧場で。兄と妹のように。”(主婦と生活社/1988)
*85 TBSラジオ『中村雅俊マイ・ホームページ』(2003.02.10)
*86 『GORO』1983年3月24日号“MUSIC STREET スペシャル・トーク 来生たかお VS 河合奈保子”(小学館/1983)
*87 『GORO』1983年3月24日号“MUSIC STREET スペシャル・トーク 来生たかお VS 河合奈保子”(小学館/1983)
*88 『Hot・Dog press』1982年12月25日号“HUMAN HOT INTERVIEW 内弁慶メロディ・メーカーはオリコンを毎週愛読しているのだった。”(講談社/1982)
*89 コンサート(2003年)のMC
*90 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.15
*91 エフエム世田谷『三浦和人とドクター弘美の心デトックス・ナイト』(2015.11.06)
*92 エフエム世田谷『三浦和人とドクター弘美の心デトックス・ナイト』(2015.11.06)
*93 『週刊明星』1991年5月30日号“Jump Up インタビュー 来生たかお うちは婦唱夫随だけど、かみさんは爐△欧泙鶚瓩任后鼻塀険兌辧1991)
*94 NHK総合の音楽番組『ふたりのビッグショー 来生たかお&渡辺真知子』(1996.04.22)
*95 復活! 来生たかおトークセッション第二弾(2015.12.12)
*96 コンサート(2010)のMC
*97 TBS系『ザ・ベストテン』(1982.03.25)のインタビュー
*98 『シティロード』1982年3月号“追っかけインタビュー”(エコー企画/1982)
*99 『GORO』1983年3月24日号“MUSIC STREET スペシャル・トーク 来生たかお VS 河合奈保子”(小学館/1983)
*100 TBSラジオ『中村雅俊マイ・ホームページ』(2003.02.10)|『朝日新聞』夕刊の芸能欄(1995.11.25)
*101 『映画情報』1982年4月号“ミュージック・コーナー 話題の歌手㉑ 来生たかお ヒットにとまどうマイ・ペースの音楽人生 ”(国際情報社/1982)
*102 『シティロード』1982年3月号“追っかけインタビュー”(エコー企画/1982)
*103 『映画情報』1982年4月号“ミュージック・コーナー 話題の歌手㉑ 来生たかお ヒットにとまどうマイ・ペースの音楽人生 ”(国際情報社/1982)
*104 『ARENA37℃』1983年5月号“HOT-TIME 「音楽やってる人間は、音楽だけやってなきゃダメ」 他人の仕事が多かった来生たかおが、今年は自分の活動に力がはいってる!”(音楽専科社/1983)
*105 『オリコンウィーク・ザ・1番』1996年7月22日号“小池聡行と対談 連載第31回 感性Ichiban人間登場!! コーヒーとタバコがないといい曲は生まれないですね。”(オリコン/1996.07)
*106 TAKAO KISUGI LIVE 浅い夢から
*107 来生たかお40周年記念アルバム 来生たかおセルフカバーベスト「夢のあとさき」発売記念ミニライブ&握手会』のMC
*108 来生たかおソロライブ Stand Alone 2013』のMC
*109 来生たかお 20th Anniversary Concert Tour '95〜'96 夢より遠くへ』のツアーパンフレット
*110 復活! 来生たかおトークセッション第二弾(2015.12.12)
*111 来生たかお Stand Alone 2012 Christmas Color』のMC
*112 文化放送『吉田照美のやる気MANMAN!』(2004.11.16)
*113 来生たかお Stand Alone 2012 Christmas Color』のMC
*114 復活! 来生たかおトークセッション第二弾(2015.12.12)
*115 復活! 来生たかおトークセッション第二弾(2015.12.12)
*116 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.25
*117 富澤一誠著『あいつのクシャミ』““マネージャー泣かせ”で“女泣かせ”の逆立つ髪の毛”(飛鳥新社/1980.01.06)
*118 富澤一誠著『あいつのクシャミ』““マネージャー泣かせ”で“女泣かせ”の逆立つ髪の毛”(飛鳥新社/1980.01.06)
*119 フジテレビ系『森田一義アワー 笑っていいとも!』(1984.03.27)
*120 来生たかお Concert Tour '88〜'89 With Time』のツアーパンフレット
*121 小椋佳トリビュートコンサート 夢歌詩、あるところに』(2008.05.31・06.01)のMC
*122 復活! 来生たかおトークセッション第一弾(2015.10.01)
*123 FM COCOLO『THE MUSIC OF NOTE 来生たかお ノスタルジーへの誘い』(2016.07.17)
*124 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『HEAD ROCK』1987年9月25号? Vol.76“TAKAO CLUB VOL.46”(キティ・ミュージック・コーポレーション/1985.09.25)
*125 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『HEAD ROCK』1987年9月25号? Vol.76“TAKAO CLUB VOL.46”(キティ・ミュージック・コーポレーション/1985.09.25)
*126 NHK総合『ヤングスタジオ101』(1987.08.09)
*127 40th Anniversary 来生たかお Symphonic Concert 2015-2016 夢のあとさき』(2016.04.09)のMC
*128 エフエム世田谷『三浦和人とドクター弘美の心デトックス・ナイト』(2015.11.13)
*129 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.51
*130 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.2
*131 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.41
*132 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.44
*133 文化放送『さだまさしのセイ!ヤング』(1982.02.20)
*134 文化放送『さだまさしのセイ!ヤング』(1982.02.20)
*135 FM愛知『NDS presents 高嶋ちさ子 Gentle Wind』(2011.04.08)
*136 文化放送『さだまさしのセイ!ヤング』(1982.02.20)
*137 来生たかお Stand Alone 2015 Acoustic Tracks』のMC
*138 来生たかお Stand Alone 2015 Acoustic Tracks』のMC
*139 来生たかおソロライブ Stand Alone 2009』のMC
*140 コンサート(2008)のMC
*141 NHK総合『ふたりのビッグショー 来生たかお&渡辺真知子』(1996.04.22)
*142 NHK-BS2特番『スーパースターライブ「日本で一番、憂鬱でハッピーな一日」 -井上陽水シークレットライブ-』(1999.12.10)/NHK総合特番『井上陽水 secret Live 遊んであげる 今日だけ』(1999.12.26)
*143 TBSラジオ『小堺一機のサタデーウィズ』(2006.09.16)
*144 来生たかお 20th Anniversary Concert Tour '95〜'96 夢より遠くへ』のツアーパンフレット
*145 『週刊平凡』1986年2月?日号“吉見佑子のミス・マッチ・トーク シリーズ27 来生たかお”(マガジンハウス/1986)
*146 来生たかおソロライブ Stand Alone 2006』のMC
*147 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.26
*148 来生たかお マンスリーソロライブ Stand Alone Another Side』(2006.11.24)のMC
*149 来生たかおソロライブ Stand Alone 2007』のMC
*150 来生たかおソロライブ Stand Alone 2012』のMC
*151 来生たかおソロライブ Stand Alone 2012』(2012.09.01)のMC
*152 来生たかおソロライブ Stand Alone 2012』のMC
*153 来生たかおソロライブ Stand Alone 2012』(2012.11.23)のMC
*154 来生たかおソロライブ Stand Alone 2012』(2012.09.01)のMC
*155 来生たかおソロライブ Stand Alone 2012』(2012.11.23)のMC
*156 40th Anniversary 来生たかお Symphonic Concert 2015-2016 夢のあとさき』(2015.12.19)のMC
*157 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.2
*158 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.25
*159 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.25
*160 『週刊平凡』1986年2月?日号“吉見佑子のミス・マッチ・トーク シリーズ27 来生たかお”(マガジンハウス/1986)
*161 コンサート(2008)のMC
*162 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.2
*163 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.2
*164 BS日テレ『地球劇場 100年後の君に聴かせたい歌』(2015.12.12)
*165 『週刊平凡』1986年2月?日号“吉見佑子のミス・マッチ・トーク シリーズ27 来生たかお”(マガジンハウス/1986)
*166 『週刊平凡』1986年2月?日号“吉見佑子のミス・マッチ・トーク シリーズ27 来生たかお”(マガジンハウス/1986)
*167 来生たかお Concert Tour '84 Romantic Cinematic』のツアーパンフレット
*168 FM愛知『NDS presents 高嶋ちさ子 Gentle Wind』(2011.04.15)
*169 復活! 来生たかおトークセッション第二弾(2015.12.12)
*170 『Hot・Dog press』1982年12月25日号“HUMAN HOT INTERVIEW 内弁慶メロディ・メーカーはオリコンを毎週愛読しているのだった。”(講談社/1982)
*171 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.27
*172 来生たかお Concert Tour '84 Romantic Cinematic』のツアーパンフレット
*173 『Hot・Dog press』12月25日号“HUMAN HOT INTERVIEW 内弁慶メロディ・メーカーはオリコンを毎週愛読しているのだった。”(講談社/1982)
*174 復活! 来生たかおトークセッション第二弾(2015.12.12)
*175 『シティロード』1982年3月号“追っかけインタビュー”(エコー企画/1982)
*176 来生えつこ著『いろはにオトコ』(新潮社/1985)
*177 来生たかお Concert Tour '84 Romantic Cinematic』のツアーパンフレット
*178 『MORE』1982年5月号“アダルトな都会派サウンドに少年の感性が漂う(集英社/1982)
*179 『高二時代』2月号“JK・INTRVIEW シンガー・ソングライター 来生たかお 音楽は仕事であり、趣味。心地よいメロディーを作りたい”(旺文社/1985.01)
*180 『高二時代』2月号“JK・INTRVIEW シンガー・ソングライター 来生たかお 音楽は仕事であり、趣味。心地よいメロディーを作りたい”(旺文社/1985.01)
*181 『Hot・Dog press』1982年12月25日号“HUMAN HOT INTERVIEW 内弁慶メロディ・メーカーはオリコンを毎週愛読しているのだった。”(講談社/1982)
*182 『Hot・Dog press』1982年12月25日号“HUMAN HOT INTERVIEW 内弁慶メロディ・メーカーはオリコンを毎週愛読しているのだった。”(講談社/1982)
*183 来生たかお 20th Anniversary Concert Tour '95〜'96 夢より遠くへ』のツアーパンフレット
*184 『zakzak』“ひとりごと”(産業経済新聞社/2005.10.01)
*185 ニッポン放送『マジカルミュージックツアーCountdown2000』“1983年特集”(2000.01.28)
*186 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.15
*187 TOKYO FM『エモーショナルビート』(1997.01.20)
*188 40th Anniversary 来生たかお Symphonic Concert 2015-2016 夢のあとさき』のMC
*189 来生たかおソロライブ Stand Alone 2012』(2012.11.23)のMC
*190 来生たかおソロライブ Stand Alone 2012』(2012.11.23)のMC
*191 エフエム世田谷『三浦和人とドクター弘美の心デトックス・ナイト』(2015.11.06)
*192 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.2
*193 TOKYO FM『エモーショナルビート』(1997.01.20)
*194 来生たかおソロライブ Stand Alone 2013』のMC
*195 『週刊明星』1991年5月30日号“Jump Up インタビュー 来生たかお うちは婦唱夫随だけど、かみさんは爐△欧泙鶚瓩任后鼻塀険兌辧1991)
*196 来生たかお Concert Tour '88〜'89 With Time』のツアーパンフレット
*197 『「tricolour mermaid」先行配信リリースconcert』(2013.06.08)のMC
*198 来生たかお Concert Tour '88〜'89 With Time』のツアーパンフレット
*199 来生たかお 20th Anniversary Concert Tour '95〜'96 夢より遠くへ』のツアーパンフレット
*200 NHK-FM『サタデーホットリクエスト』(2005.11.12)
*201 『MORE』1982年5月号“アダルトな都会派サウンドに少年の感性が漂う(集英社/1982)
*202 『月刊歌謡曲』1982年5月特大号“特集I 来生たかお”(ブティック社/1982.05.01)
*203 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.51
*204 NHKラジオ第1『音楽夢倶楽部』(1999.11.20)
*205 『月刊テニスジャーナル』1987年7月号“Tennis in my Life ㉖”(スキージャーナル/1987.06.05)
*206 『週刊明星』1991年5月30日号“Jump Up インタビュー 来生たかお うちは婦唱夫随だけど、かみさんは爐△欧泙鶚瓩任后鼻塀険兌辧1991)
*207 来生たかお 20th Anniversary Concert Tour '95〜'96 夢より遠くへ』のツアーパンフレット
*208 来生たかおソロライブ Stand Alone 2014』のMC
*209 来生たかおソロライブ Stand Alone 2014』のMC
*210 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.27
*211 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『HEAD ROCK』(1983)
*212 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.21
*213 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.27
*214 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.26
*215 ニッポン放送制作『中村こずえのみんなでニッポン日曜日!』(2014.03.02)
*216 復活! 来生たかおトークセッション第二弾(2015.12.12)
*217 JAバンク石川コンサートVol.4 来生たかお&オーケストラ・アンサンブル金沢コンサート』のMC
*218 『週刊明星』1991年5月30日号“Jump Up インタビュー うちは婦唱夫随だけど、かみさんは爐△欧泙鶚瓩任后鼻塀険兌辧1991)
*219 来生たかお Concert Tour '88〜'89 With Time』のツアーパンフレット
*220 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.24
*221 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.24
*222 文化放送『フォークトレイン』(2001.08.19)
*223 赤坂プリンスホテルビュッフェディナーショー STREET CLUB ZONE Special Acoustic concert 2004
*224 鎌倉プリンスホテル サマーディナーショー SUNSET DREAM?
*225 『月刊テニスジャーナル』1987年7月号“Tennis in my Life ㉖”(スキージャーナル/1987.06.05)
*226 『月刊テニスジャーナル』1987年7月号“Tennis in my Life ㉖”(スキージャーナル/1987.06.05)
*227 『月刊現代』1987年6月号“勝負に勝ちたい”(講談社/1987)
*228 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.24
*229 『報知新聞』“悪友親友こう言う録”(1991.05.23)
*230 『報知新聞』“悪友親友こう言う録”(1991.05.23)
*231 TBSラジオ『一慶の歌謡大放送』(1987.08.24)
*232 『ラケットスポーツ』(ゴーセン/1990)
*233 NHK-FM『高橋基子のニューサウンズスペシャル』(1988.01.16)
*234 来生たかお 20th Anniversary Concert Tour '95〜'96 夢より遠くへ』のツアーパンフレット
*235 『月刊現代』1987年6月号“勝負に勝ちたい”(講談社/1987)
*236 来生たかお 20th Anniversary Concert Tour '95〜'96 夢より遠くへ』のツアーパンフレット
*237 来生たかお Concert Tour '88〜'89 With Time』のツアーパンフレット
*238 来生たかお Concert Tour '88〜'89 With Time』のツアーパンフレット
*239 来生たかお Concert Tour '88〜'89 With Time』のツアーパンフレット
*240 『月刊テニスジャーナル』1987年7月号“Tennis in my Life ㉖”(スキージャーナル/1987.06.05)
*241 『週刊明星』1991年5月30日号“Jump Up インタビュー うちは婦唱夫随だけど、かみさんは爐△欧泙鶚瓩任后鼻塀険兌辧1991)
*242 来生たかお 20th Anniversary Concert Tour '95〜'96 夢より遠くへ』のツアーパンフレット
*243 アコースティックコンサート2008』のMC
*244 来生たかお 20th Anniversary Concert Tour '95〜'96 夢より遠くへ』のツアーパンフレット
*245 『クロワッサン』 1995年3月25日発売号“話をしたい あの本のこと 来生たかお◆鼻1995.03.25/マガジンハウス)
*246 『報知新聞』の芸能欄“悪友親友こう言う録”(1991.05.23)
*247 『報知新聞』の芸能欄“悪友親友こう言う録”(1991.05.23)
*248 『週刊明星』1991年5月30日号“Jump Up インタビュー うちは婦唱夫随だけど、かみさんは爐△欧泙鶚瓩任后鼻塀険兌辧1991)
*249 フジテレビ系『SMAP×SMAP』(2000.05.15)
*250 『クロワッサン』 1995年3月25日発売号“話をしたい あの本のこと 来生たかお◆鼻1995.03.25/マガジンハウス)
*251 復活! 来生たかおトークセッション第一弾(2015.10.01)
*252 復活! 来生たかおトークセッション第一弾(2015.10.01)
*253 来生たかお Solo Live Premium Stand Alone 2014』のMC
*254 フジテレビ系『森田一義アワー 笑っていいとも!』(1984.03.27)
*255 復活! 来生たかおトークセッション第一弾(2015.10.01)
*256 清水音泉オフィシャルブログ『清水音泉♨風呂具』“麻雀”(2008.06.29)
*257 『Hot・Dog press』1982年12月25日号“HUMAN HOT INTERVIEW 内弁慶メロディ・メーカーはオリコンを毎週愛読しているのだった。”(講談社/1982)
*258 『Hot・Dog press』1982年12月25日号“HUMAN HOT INTERVIEW 内弁慶メロディ・メーカーはオリコンを毎週愛読しているのだった。”(講談社/1982)
*259 NHKラジオ第1『音楽夢倶楽部』(1999.11.20)
*260 来生たかお 20th Anniversary Concert Tour '95〜'96 夢より遠くへ』のツアーパンフレット
*261 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『HEAD ROCK』(1983)
*262 『新譜ジャーナル』1981年10月号“ESSAY 来生たかお“深さゆえの広さ”を生む生活”(自由国民社/1981) 。「ゼビウス」は「スペースインベーダー」の100倍も面白く*263、ハマった記念として1983年の12月にテーブル筐体の機器を購入し*264、100円で数時間は持つ程の腕前を息子に伝授したという*265。なお、来生は自身最高の970万点を獲得するまでに5時間くらい掛かると感じていたが、夫人に訊いたところ6時間は掛かっていると答えられたという((『来生たかお Concert Tour '84 Romantic Cinematic』のツアーパンフレット
*263 フジテレビ系『森田一義アワー 笑っていいとも!』(1984.03.27)
*264 来生たかお Concert Tour '84 Romantic Cinematic』のツアーパンフレット
*265 『月刊現代』1985年2月号“現代インサイド 広げよう、ゼビウスの輪ッ! ゼビウス ”(講談社/1985)
*266 復活! 来生たかおトークセッション第二弾(2015.12.12)
*267 『Hot・Dog press』1982年12月25日号“HUMAN HOT INTERVIEW 内弁慶メロディ・メーカーはオリコンを毎週愛読しているのだった。”(講談社/1982)
*268 『Hot・Dog press』1982年12月25日号“HUMAN HOT INTERVIEW 内弁慶メロディ・メーカーはオリコンを毎週愛読しているのだった。”(講談社/1982)
*269 『週刊現代』2012年6月30日号“ 週現『熱討スタジアム』第20回『美空ひばり』に魅せられて”(講談社/2012.06.18)
*270 来生たかおソロライブ Stand Alone 2012』(2012.11.23)のMC
*271 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.23
*272 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.23
*273 FM愛知『NDS presents 高嶋ちさ子 Gentle Wind』(2011.04.15)
*274 『週刊現代』1997年10月11日号“私の“中毒書”日記 「いまの世界」への疑問を解いた本 ”(講談社/1997)
*275 『週刊現代』1997年10月11日号“私の“中毒書”日記 「いまの世界」への疑問を解いた本 ”(講談社/1997)
*276 復活! 来生たかおトークセッション第二弾(2015.12.12)
*277 エフエム世田谷『三浦和人とドクター弘美の心デトックス・ナイト』(2015.11.13)
*278 来生たかおソロライブ Stand Alone 2014』のMC
*279 来生たかお マンスリーソロライブ Stand Alone Another Side』(2006.10.20)のMC
*280 来生たかお Concert Tour '88〜'89 With Time』のツアーパンフレット
*281 来生たかお Concert Tour '88〜'89 With Time』のツアーパンフレット
*282 キティサークル公認ファンクラブ「TAKAO CLUB OSAKA」の会報『I Will...』No.2(1987.04)
*283 復活! 来生たかおトークセッション第二弾(2015.12.12)
*284 ニッポン放送制作『中村こずえのみんなでニッポン日曜日!』(2014.03.02)
*285 復活! 来生たかおトークセッション第二弾(2015.12.12)
*286 『月刊歌謡曲』1982年5月特大号“特集I 来生たかお”(ブティック社/1982.05.01)
*287 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.41
*288 ファンクラブ「来生たかおインフォメーションデスク」の会報『別冊 来生たかお』2000冬の号(2000.02.01/ベイシック)
*289 ファンクラブ「来生たかおインフォメーションデスク」の会報『別冊 来生たかお』2000冬の号(2000.02.01/ベイシック)
*290 来生たかお 25th Anniversary Concert Tour 2000 Dear My Company』の小冊子(2000)
*291 来生たかお 25th Anniversary Concert Tour 2000 Dear My Company』の小冊子(2000)
*292 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.41
*293 『non・no』1981年8月20日号“私の猫ものがたり むしぷは特別な猫なんだ”(集英社/1981)(『私の猫ものがたり』(集英社/1983.06)に収録)
*294 『月刊歌謡曲』1982年5月特大号“特集I 来生たかお”(ブティック社/1982.05.01)
*295 来生たかおトークセッション第2弾「将棋」(2005)
*296 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『HEAD ROCK』1986年8月25日号 Vol.63“TAKAO CLUB VOL.34〈『来生たかお 10th ANNIVERSARY ELEVEN NIGHT THEATER』のMCから抜粋〉”(キティ・ミュージック・コーポレーション/1986.08.25)
*297 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.36
*298 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.2
*299 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.26
*300 『蘇る!』1999年8月号“ 対談 来生たかお×高瀬春奈 ペットは心の友である”(経済界/1999.07.08)
*301 『蘇る!』1999年8月号“ 対談 来生たかお×高瀬春奈 ペットは心の友である”(経済界/1999.07.08)
*302 『蘇る!』1999年8月号“ 対談 来生たかお×高瀬春奈 ペットは心の友である”(経済界/1999.07.08)
*303 『蘇る!』1999年8月号“ 対談 来生たかお×高瀬春奈 ペットは心の友である”(経済界/1999.07.08)
*304 『蘇る!』1999年8月号“ 対談 来生たかお×高瀬春奈 ペットは心の友である”(経済界/1999.07.08)
*305 来生たかお Solo Live Premium Stand Alone 2014』のMC
*306 コンサート(2014)のMC
*307 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.40
*308 テレビ朝日系『徹子の部屋』(1991.05.22)
*309 来生えつこ著『夢の途中に』(リクルート出版/1990.10)
*310 日本テレビ系『恋のから騒ぎ』
*311 来生えつこ著『夢の途中に』(リクルート出版/1990.10)
*312 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.17
*313 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.2
*314 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.26
*315 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.11
*316 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.41
*317 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.2
*318 富澤一誠著『あいつのクシャミ』““マネージャー泣かせ”で“女泣かせ”の逆立つ髪の毛”(飛鳥新社/1980.01.06)
*319 文化放送『さだまさしのセイ!ヤング』(1982.02.20)
*320 文化放送『さだまさしのセイ!ヤング』(1982.02.20)
*321 『オリコンWEEKLY』1981年12月25日号“PERSON TO PERSON”(オリジナルコンフィデンス/1981.12.25)
*322 復活! 来生たかおトークセッション第二弾(2015.12.12)
*323 来生たかお 20th Anniversary Concert Tour '95〜'96 夢より遠くへ』のツアーパンフレット
*324 『月刊歌謡曲』1982年5月特大号“特集I 来生たかお”(ブティック社/1982.05.01)
*325 復活! 来生たかおトークセッション第二弾(2015.12.12)
*326 『月刊 サウンドレコパル』1981年9月号“読者参加企画 レコード名盤選 私の100枚 ボクをうならせた名唱のボーカル・アルバム”(小学館/1981)
*327 ベストCD-BOX『来生たかお作品集 Times Go By』付属冊子“来生たかお×来生えつこ”(2001.05)
*328 『月刊 サウンドレコパル』1981年9月号“読者参加企画 レコード名盤選 私の100枚 ボクをうならせた名唱のボーカル・アルバム”(小学館/1981)
*329 文化放送『さだまさしのセイ!ヤング』(1982.02.20)
*330 来生たかお マンスリーソロライブ Stand Alone Another Side』(2006.11.24)のMC
*331 スペシャルライブ2006 Stand Alone Christmas Color』(2006.12.23)
*332 ベストCD-BOX『来生たかお作品集 Times Go By』付属冊子“来生たかお×来生えつこ”(2001.05)
*333 来生たかお 30th Anniversary Concert Tour 2005 avantage アヴァンタージュ』(2005.12.26)のMC
*334 来生たかおソロライブ Stand Alone 2013』のMC
*335 来生たかおソロライブ Stand Alone 2012』(2012.07.07)のMC
*336 来生たかおソロライブ Stand Alone 2012』(2012.07.07)のMC
*337 NHK-FM『私の名盤コレクション』(2005.10.19〜23)
*338 NHKラジオ第1『音楽夢倶楽部』(1999.11.20)
*339 TOKYO FM『大江千里のLive Depot』Vol.182(2004.12.09)
*340 来生たかお 20th Anniversary Concert Tour '95〜'96 夢より遠くへ』のツアーパンフレット
*341 『FMレコパル』1991年5月13日号“POPS*ROCK インタビュー&レビュー 来生たかお「永遠の瞬間〜モーメント〜」”(小学館/1991)
*342 来生たかおソロライブ Stand Alone 2013』のMC
*343 『FM fan』8月15日号“FM PROGRAM SPECIAL 来生たかおVS悲愴”(共同通信社/1983)
*344 『FM fan』8月15日号“FM PROGRAM SPECIAL 来生たかおVS悲愴”(共同通信社/1983)
*345 エフエム世田谷『三浦和人とドクター弘美の心デトックス・ナイト』(2015.11.06)
*346 コンサート(2012)のMC
*347 コンサート(2007)のMC
*348 コンサート(2012)のMC
*349 『FMレコパル』1991年5月13日号“POPS*ROCK インタビュー&レビュー 来生たかお「永遠の瞬間〜モーメント〜」”(小学館/1991)
*350 『ARENA37℃』1983年5月号“HOT-TIME 「音楽やってる人間は、音楽だけやってなきゃダメ」 他人の仕事が多かった来生たかおが、今年は自分の活動に力がはいってる!”(音楽専科社/1983)
*351 『ARENA37℃』1983年5月号“HOT-TIME 「音楽やってる人間は、音楽だけやってなきゃダメ」 他人の仕事が多かった来生たかおが、今年は自分の活動に力がはいってる!”(音楽専科社/1983)
*352 『ARENA37℃』1983年5月号“HOT-TIME 「音楽やってる人間は、音楽だけやってなきゃダメ」 他人の仕事が多かった来生たかおが、今年は自分の活動に力がはいってる!”(音楽専科社/1983)
*353 文化放送『加山雄三 未来にセールオン』(2001)
*354 TBSラジオ『中村雅俊マイ・ホームページ』(2003.02.13)
*355 ベストCD-BOX『来生たかお作品集 Times Go By』付属冊子“来生たかお×来生えつこ”(2001.05)
*356 ギルバート・オサリヴァンの日本盤アルバム『In The Key Of G』(1990.04.13)のブックレット
*357 BS-i(BS-TBS)『Song To Soul』(2009.06.03)
*358 ギルバート・オサリヴァンの日本盤アルバム『In The Key Of G』(1990.04.13)のブックレット
*359 『クロワッサン』 1995年3月25日発売号“話をしたい あの本のこと。来生たかお◆鼻淵泪ジンハウス/1995)
*360 日本テレビ系『FAN』(1998.07.10)
*361 ファンクラブ「来生たかおインフォメーションデスク」の会報『別冊 来生たかお』1998夏の号(1998.07.31/ベイシック)
*362 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.3
*363 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『HEAD ROCK』1986年9月25日号“TAKAO CLUB VOL.34 ”(キティ・ミュージック・コーポレーション/1986.09.25)
*364 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.25
*365 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.27
*366 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.27
*367 『OK-Music Electric Side Web』コラム“クロスウィンドの頃 6 白竜ナンセンスフォーク事件”
*368 『OK-Music Electric Side Web』コラム“クロスウィンドの頃 6 白竜ナンセンスフォーク事件”
*369 『OK-Music Electric Side Web』コラム“クロスウィンドの頃 6 白竜ナンセンスフォーク事件”
*370 板倉雅一オフィシャルブログ『My Chronicle』“来生たかお&リンドン 1977年”(2016.03.27)
*371 19歳の頃、因幡晃の仕事で世話になった松田真人に誘われて来生のバックバンドに加わった(柿崎洋一郎オフィシャルブログ『KAKIYANの時々日記。』“来生たかお35周年コンサート”(2010.12.24))。
*372 (平野肇著『僕の音楽物語(1972-2011)名もなきミュージシャンの手帳が語る日本ポップス興亡史』(祥伝社/2011.09.06))
*373 平野肇著『僕の音楽物語(1972-2011)名もなきミュージシャンの手帳が語る日本ポップス興亡史』(祥伝社/2011.09.06)
*374 平野肇著『僕の音楽物語(1972-2011)名もなきミュージシャンの手帳が語る日本ポップス興亡史』(祥伝社/2011.09.06)
*375 平野肇著『僕の音楽物語(1972-2011)名もなきミュージシャンの手帳が語る日本ポップス興亡史』(祥伝社/2011.09.06)
*376 『週刊文春』1991年5月16日号“語りおろし連載 第286回 行くカネ 来るカネ「四十歳を迎えたシンガーソングライター 新しい音楽を作って儲けようという気は全然ない」”(文藝春秋社/1991)
*377 『週刊文春』1991年5月16日号“語りおろし連載 第286回 行くカネ 来るカネ「四十歳を迎えたシンガーソングライター 新しい音楽を作って儲けようという気は全然ない」”(文藝春秋社/1991)
*378 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.51
*379 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.51
*380 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.51
*381 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.51
*382 『FMレコパル』1977年11月14日号“Target 少年のゆらめきが……来生(きすぎ)たかお”(小学館/1977)
*383 NHK-FM『高橋基子のニューサウンズスペシャル』(1988.01.16)
*384 『産経新聞』“対談 小椋佳+来生たかお”(産業経済新聞社/1997.04)
*385 『産経新聞』“対談 小椋佳+来生たかお”(産業経済新聞社/1997.04)
*386 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.36
*387 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.36
*388 TBSラジオ『サウンドストームDJANGO』(来生姉弟が進行役を務めた“たかおサウンドノスタルジー”/1982.11.10)
*389 『zakzak』“ひとりごと”(産業経済新聞社/2005.10.01)
*390 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『HEAD ROCK』1987年5月25日号 Vol.72“TAKAO CLUB VOL.42”(キティ・ミュージック・コーポレーション/1987.05.25)
*391 文化放送『さだまさしのセイ!ヤング』(1982.02.20)
*392 来生たかお Concert Tour '82 夢の途中…』のツアーパンフレット“全国プロモーターよりの書簡”
*393 『月刊アニメージュ』1987年6月号“第9回アニメグランプリ”(徳間書店/1987)
*394 コンサート(2009・2012)のMC