紙の向こうの建築


Cafe Ark

目の前でなく、ページの向こうの建築はどうなっているのだろう

EMIL NAKIJIN  小川晋一

20210213 小川さんが流行りのヴィラをつくればこうなるということ。変わらないスタイルやアプローチで感心するし、いい意味で笑える。つくり続けることがいかに大事なことか。そして人はたくさんの建築を知りながら本質は見えにくくしているのかな?

http://shinichiogawa.com/emil-nakijin-2/

Obscured Horizon   磯崎新

             GA HOUSE

久しぶりの磯崎さんの住宅だ。いや住宅ではないか。けれどそう見えてしまう。この最近の住宅雑誌に少しうんざりしていたところでこんなものをみたらたまったものではない。アメリカのカリフォルニア、砂漠の中に寝るための場所を創る。学生の課題になりそうな建築だし答えも明快で面白い。その造形にもあまり理由があるようでないようで。まだまだこんなものを創る建築家がいて、それを取り上げる雑誌があることが現代なのかもしれない。ほかの住宅を一周ぐらい抜き去っている。同じような建築では藤森さんの茶室があげられるかもしれない。かたや建築史家のつくるものは饒舌で、建築家のつくるものはここまであっさりとしている。好対照だ。建築に携わっていてデザインが好きな人はその違いを楽しめるだろう。

ICHINOE 設計 駒田剛司+駒田由香/駒田建築設計事務所

既存のALCの建物をリニューアル。流れるような壁があるものの、うねりすぎてもいないで綺麗に空間を切り取っている。内部空間だけに薄い鉄壁でも構造を考える必要も無く楽に納めているように見える。レイヤーといっているそれぞれの階層の読み方も素直で無理がない。二階に対比した個別の空間もわかりやすい。そちらは木造の壁で今度は四角く区切っていく。オープンな場所、閉じた場所という対比も同じくわかりやすい構成だ。うねった壁やこねくりまわしたプランが多い近頃にしては納得するつくり方だ。ただ外部の色使いで壁の色を塗り替えることまでは必要だったのだろうか。綺麗なデザインなんだろうか。構成と美しさのバランスをどこで切るかも経験から学ぶことなんだろう。

都筑Nビル 早川邦彦

20100713 久しぶりに早川さんの名前があったので読んでみた。以前から地味な感じにうつっているつくり方だけど、やってることは相変わらず面白いプラン。 アトリウムの頃からかな。知って、熊本のアートポリスの現場を見に行ったことがある。 小さな建物でオフィスビルなのに驚くほど単純化されたプランで綺麗。ただその構造は?設備は?と思って眺めたらあら不思議、そんなことだったのねというまとめ方だ。壁柱をつかい、その空いたスペースに配管を落とす。丹精なプロポーションでシンプルかつわかるプランニング。早川さんて地味だけどほんとに面白くて飽きささない。ちまたのアクロバテック構造主義とはまた違うところにいる噛み応えのあるガムのような建築でした。

大倉山の集合住宅 妹島さん

大倉山の集合住宅 妹島和世建築設計事務所 妹島さんの集合住宅を不思議なとらえどころのない感覚で読んだ。壁は一枚の帯がうねるようにつながる。敷地を仕切り、中と外が反転し、外が内となり また逆転していくようなプランだ。平面上は波打ち、断面は重なりあう。四角い敷地の中に、庭が部屋として考えられたように内部に入り込みつながっていく。前回の分譲住宅はキューブでありながら、地中と空中で交錯していたが、今回は曲壁となり重なり合う。視線が抜けシークエンスが生まれ、奥行を感じる。ただそのプランの中にはあまり暮らしが見えてこない。学生時代に先生に言われたことを思い出した、「どこに家具を置くの」?。家具の配置、絵を飾るところ、生活を楽しむ余白が、かわされたような感じなのだ。こぎれいでこじゃれてて、どこにでも座ることができて、どこにでもたまることができる。庭は部屋の一部として、外から意思をもって内部に入り込み、流れるようにすり抜けていく。空間の一体感は生まれているのに、そこで生活する場所が見えてこない。すべての場所は均一的で、限定されるのはそこからの視線や光になるのだろうか。ユニバーサルスペースではない、ゆがんだ均一性がそこにある。人は変化に対応し、それを受け入れ逞しく暮らしていくのだろうが、豊かな空間に見えないのが今は不思議に感じている。  そしてその空間の流れには、以前みた伊東豊雄の下諏訪町立諏訪湖博物館・赤彦記念館を感じるのだ。中野本町の家でもいい。奥が見えないゆるいつながりの中に空間が連続していく。そんな奥行きを感じてしまう。伊東の建築は大きさとのバランスや、家族としての器のなかのことでもあり空間体験としては程よい距離感をもって感じることができるが、それに対してこの共同住宅は小さすぎる。平面プランとそれが立体になって立ち上がった立面にも小さなずれを感じてしまう。面はフラットとなり周囲に壁として立ち上がる。すきまがあるにもその中をうかがい知ることは簡単そうに見えない。境界線のない建築は十和田美術館を思わせ、そこで生まれる目に見えない結界の強さも写真からは感じてしまう。 ただ、そこにいたるエスキスの中で、敷地の中に庭を領域としてとり、残ったスペースに人の住む場所をつくっちゃぇという感じのプランニングは、いろいろとこねくり回しつまらなくなっていってしまう共同住宅のあり方を凌駕して、実際の建築としてどうなの?といってしまう妹島さんのパワーには圧倒されるし、その作品をとおして考えさせられることについてはいつも楽しみだ。 (新建築12月号)


堀部さん

ある町医者の記念館あたりから気になっていた建築家。その内部空間の構成の仕方になんとなく 斉藤裕の建築を思わせられたからだ。斉藤さんの初期のるるる阿房と葉山の家の流れに似ている 感じを受け取った。周りの同年代の建築家やその下の年代は異化していくデザインへと流れていく 中で、なにも変わらない作り方でも新しいものにつながるのではないかという思いを勝手に汲み取っていた。 その印象は今回の住宅建築の特集でかなりはっきりわかる。構成された空間意識、幾何学的なつながり 、そして余白の中に浮かぶ灰色の空間。  明るい空間がちやほやされ、透明な建物がうまいと思われ、模型な建築がもてはやされている昨今。 なんのために創るのか、というところから誰のために創るのか、建築のもつ可能性には独自な解を当てはめる ことは可能なのかということを創ることを通して足跡としてみることができる。  上手さとは、丁寧さとは、またそれを通してつまらなさとはということを建築は空間を通して語ることができる。

コミュニティ

今月は、面白そうな雑誌が特になく、手元に届いている建築と街づくりを手にする。 特集のタイトルを見ると、いま元気な会社 近頃のスパイラルな不況から建築業界でどんな会社が元気なんだろうと思い読んでみた。

最初の会社は建設会社の紹介。OMソーラーを利用しての街づくりが紹介されている。シュミレーションにより街区割をして、風、日差しを計算し立地条件を決める。建て主にはそれを説明し納得してもらい住宅の設計も進めたようだ。そういった取り組みにより、街づくりが成功に結びついた。自分達が作っているものをどう周りに紹介するのか、そういった一つ一つを大事にして進めている。

もうひとつはデベロッパーだろうか。マンションの供給に関しての経験が語られている。様々な仕掛けをマンションの中に作り出し、利用者間のつながりを生み出そうとしてい る。外部とつながるということに大きなエネルギーを使っているように感じられる。

どちらの会社もコミュニティの作り方に注目している。 街の中で、マンションの中で、どのように人々はコミュニケーションをとるのか、どう価値観を共有していくのか、その仕組みづくりを考えている。

以前建築家が介在した街づくりに、思い当たるものがある。ひとつはコモンシティ星田。関西圏に坂本一成が総合監修で設計し、ひとつの街をつくった。中心あたりにコミュニティハウスらしきものはあったが、建物に使われている材料はコンクリートの打ち放しであり、ガルバリウム鋼板だった。見に行ったとき、もうすでに入居者はいたのだが、景色の中に人の姿はあまり見受けられない。1階がプライベートゾーンで2階が居間のプランだから2階に人が居る気配は少しわかる。近代的な町の区画の街の未来はこうなるのだろうか、とい実験にもにた街区のデザインだった。けれどその試みはそれで終わった。

そして、もうひとつは熊本の保田窪団地。公営住宅に斬新なプランニングを持ち込み、外部からは住居をとおしてから中庭に入るというプラン。これは街というより集合住宅なのだが、そこに暮らす人々のコミュニティを積極的に作ろうとしたプランニング。

コミュニティを生み出すということが人々を元気にし、街が活性化し、それに携わるいろいろなものを元気にしていくということだろうか。

いま元気な会社、元気であろうとする会社はその中にとどまっていることなしに、対外部に向かいまた、それを生み出すために、自らが対社会とコミュニケーションをとろうとしている。小さなことの繰り返しや、積み重ねであろうがそこにいたる目的は、それぞれのつながりを生み出す工夫をしようとしている。

この紹介されている会社の中に、設計事務所組織がでてこなかったのは残念だが、またなにおかいわんやである。

鉄な建築

建築知識にコールテン鋼で作られた住宅が載っていた。構造設計者の自邸だという。そしてその構造設計もやっている。コールテン鋼のサンドイッチパネルでその空間は構成されている。 いつごろからだろうか、建築の表面にやすやすと鉄が使われるようになったのは。意匠としてまとわれる鉄はそんなに歴史があるように感じない。思い浮かぶのは、斉藤裕がタスコジャパンという建物でエントランスホールを鉄で作った。打ち放しのメインの建物の入口に丸い天井を持つそんなに大きくはない建物だ。造船技術に注目し、その技術を駆使し球形の屋根を作った。そして次に思い浮かぶのはリアスアーク美術館を設計した石山修。なだらかにうねり、ちょっと妖艶な感じのつやっぽい建物だったような気がする。  その後斉藤は住宅の階段室にさらに取り入れ、その後 (今回の雑誌:建築知識)

絵になる建築

近頃の建築雑誌を見ていて感じていた、絵にならない建築というものだが、小さな住宅は逆に絵になっている。不思議な現象の逆転がおこっている。小さな住宅はプランが複雑になり、写真とプランを見比べて理解するのにちょっとタイムラグがおこる。小さな住宅なのに、プランがわかりにくかったりする。わかりにくいプランが現在の生活の基盤になっているのかもしれない。住宅は社会を映す。高齢者の住宅であり、若い世代の住宅であり。今、この国で住宅を建築家に頼む世代や階層はどういった人々なのだろう。また、人々はどういった会社や建築家にその建築を委託するのだろうか。  建築という行為は様々な産業を巻き込む。始まりは小さな紙切れにかいたにょろにょろなプランから。それが様々な企業にコネクトしまた、小さな町の工務店にまでつながる。そのなかでどんなスタンスで自らの位置をキープするのか、ビジネスにつながりまた将来、未来につながる建築を作ること。もう一度足下を見るのではなく、踏みしめる時期にきている。

倉俣 史朗とザハ

今月の雑誌は面白そうなのがいろいろ。立ち読みする足も疲れる。A&Uの北京特集も面白いのだが今回印象に残ったのは倉俣史郎とザハ。

ミス・ブランチと聞いて椅子を想像できるだろうか。1988年に作られた。20年前になる。雑誌で初めて見たときは衝撃的だった。それから随分たってから、どこかの展覧会場で実物を目にすることになる。触れることのできない、距離のある展示会場の中で、そのジョイントがどうなっているか、いぶかしげに覗き込んだものだ。アクリルに塗り固められた薔薇の花。美しかった。こんなものに座れるのかもわからないし、座り心地もよさそうに見えない。けれど存在感はしっかりとある。透明で氷の塊のように見え、透明ゆえに存在感もなさそうな椅子が、ずっしりとした重みを感じさせる。軽さがはやっていた時代にそんなふうに見えた。

そしてもう一つはザハ。

シャネルと組んで世界を巡回するアート展のパビリオンだ。これまでの直線的な空間の区切り方でなく、ぬめぬめした曲線が、つるっとした素材をまとい、空間が連続していく。真っ白な丸い鉱石の中にはいっていくような感じだろうか。 ザハは橋も作っている。スペイン・サラゴサで開かれている万博の建物。エントランス、歩道橋、展示会場という3つの機能。先のシャネルのように展示のための建物でもあり、向こう岸に渡る橋でもある。これも白い鉱石の中に穿たれた穴から入っていくような、建物というか、橋の入り口というか。。つるっとした素材感は人それぞれに感じ方は違うだろうが、空から垂らした白い半固形物が、自分の居場所を探してへばりつき、自身で意思を持ち、無理に固形物になり凝固している。内部は、そうやって生まれたそれぞれの空間が、重なり、開きあい、つながりあっている。ちょっと気持ち悪いが生き物のおなかの中という感じにも受け取れる。

あの花博の時、イギリスの空から飛んできた砕けた破片のような物体が、大阪浪速の地面に突き刺さり、ベンチになりフォーリーになった。そんな随分昔に感じた感覚は変わらず、どこかから落ちてきた物体が、違った表現で地上に現れているのだった。 (今回の雑誌:新建築・Pen)


白の家 今

白の家 白の家が移築された。 正方形プランの真ん中に丸い独立柱。正方形の中から、はみ出しているユーティリティの部分。篠原一男が設計し1966年に竣工。四角を区切る壁の位置、丸柱とのずれかげんが微妙な位置で空間を創っている。 もう一つの雑誌には、谷川さんの住宅が掲載されている。こちらは1974年。床が土そのままの地面でしかも斜めになってるという、かなりインパクトのある住宅。 プランをみていると、どちらも玄関はどこだろうという思いにいたる。玄関で靴を脱ぐという行為は、家をきれいに保ったり、くつろぐということにつながると思うのだが、白の家にも谷川さんの家にも平面図だけからでははっきりした玄関がわからなかった。つくられたのは随分前だが玄関を感じさせない家。玄関のしつらえ(機能)とはなんだろうか。施設などではあえて住宅らしさをだすために玄関をしつらえる時がある。床仕上げの色を変えたりし、靴を脱ぐこともない場所を玄関とよぶ。ひとつの結界のように。ただ靴を脱ぐ場所としてではない場所。外の生活から帰り、安全な家の中に入るという場所なのだろうか。 そんな結界のない白の家の平面は単純で、象徴的な柱の横をまっすぐな壁が分割する。水周りはその四角から追い出されるようにはみだしていく。この新しい白の家は40年近く住んでいた家を移築したもの。古い家を古い材を再利用して移築ということでもない。使える部材は丸柱と小屋組だけだったようだ。他の部材などは、ほとんど新しく造り変えることになるというのに、プランやデザインは変わることがない。住み続けていくうちに少しずつ変わっていく有名住宅は見たことがあるのだが、そっくりそのまままた新しく移築するという建物は歴史的建物ぐらいしかおもいつかない。そういえばスミレアオイハウス(9坪ハウス)なども再現される住宅に、はいるのかもしれない。そちらも玄関が見当たらなかったのではないだろうか。小住宅のプランに玄関がないのはわかるが、白の家も谷川さんの住宅も小さいとはいえない。 この建物は歴史的建造物となってしまったのだろうか。その玄関のわからないプランを見ながら考えを游がせている。(今回の雑誌:新建築・TOTO通信)

美術館

最近の建築雑誌で目についたもので、十和田美術館がある。設計は西沢立衛(にしざわ・りゅうえ)。分棟形式でつくられていて、建物、敷地、道路との関係が以前設計した住宅(森山邸)のプランに似ている。住宅は分散配置で独立していたが、美術館はボックスを通路で結んでいる。それぞれはバラバラに配置されているように見え、建物どうしの存在は距離をとり、道路の反対側もそんな空地の連続間で敷地の一部のように感じられる。

最近変わった美術館が多くて、建築雑誌以外にもよく目にするようになった。青森、横浜、金沢、群馬。

群馬はちょうど耐震工事が完了し、磯崎新の美術館展が現在行われている。ホワイトキューブがコンセプトになっていて、捉え方しだいでは最新の十和田にも通じるような感じを受けるが、キューブは大きな入れ物の中に入っていてキューブを感じることは意識して見てみないとわからないような作り方だ。コンセプト模型やドローイングからうかがい知るところだろうか。

十和田美術館が新しいコンセプトに基づいているような感覚を最初は受けたのだが、これまでに磯崎が作ってきた美術館をその展覧会の中から覗いてみると、あまりそんなに遠いところにもきていない。奈義の美術館では永久保存版の美術品としての器を美術館に組み込んでいる。ひとつの作品の為の美術館というものも、もうすでにつくられているものだ。

たくさんのデザインが創られ、消費され、忘れ去られていく。その取っ掛かりや表現は新しいものに感じるものだが、その骨格を剥ぎ取り単純な視点から捉えると、そんなに変わることのない何か普遍的な解が底にねむっているような感じを受けた。

アトリウムとsarugaku 

080123 雑誌でみた商業建築の構成がどこかで見たことのある風景にかぶさって見えた。 その建物を考えていたらだんだんとその輪郭が見えてきた。 1985年に早川氏がつくった集合住宅。その後僕は熊本の熊本市営新地団地Aを実際に見る 機会を得た。 sarugakuは雑誌のカットでしかその流れや構成を見ることはできないが、その集合住宅の構成とダブって見えたのである。商業施設としての法規制やコストから導き出してきた構成だろうが一気に過去へとフラッシュバックしてしまった。それだけ早川氏のつくったものの中には未来への可能性が満ちていたのだろうか。

リベスキンド ユダヤ博物館 サンフランシスコ

リベスキンド設計のユダヤ博物館。工事中だというのになにか違う気配を発散させていた。そこにあるものが周りと違う形態を持つことでそこに意外な物質として吸収される。吸収されたからこそ、異物として認識される。そしてそこにあり続ける。イメージとしてすりこめられた最初の違和感はその流れの中でずっと保ち続けられる。そしてそれに触れるとそこに戻っていってしまう。その違和感はいったいなんだろう。一目見ただけでそこに帰ってしまう違和感とは。。

乾久美子 アパートメント

雑誌に載ったころから気になっていた建物。創り方もそうだけれど、見ために見えないことが気になっていた。見えないところの建築。見えなければ見えないほど良いと思えるもの。設備についてである。この建物は集合住宅であるにもかかわらず、パイプスペースが見えてこないし、各設備の湯沸かし器や、メーターが見えてこない。換気扇のシャフトがどうとおっているかも。  そんなこととあわせて、その空間の切り取り方、街への開き方、人が座り込むという場所、ひとつの部屋の可能性、そんなものを併せ持ちながら成り立っている建築に興味を感じた。  階段を中心にして階を展開する。二枚の構造的に自立している壁。階段をつけるための壁とそれを支えるための壁。そこを軸にして鏡面に配置された上と下。  スラブの中を走るダクト。空に向かって開いている機械置き場。小さな中だからこそ、限られた場所しかないからこそ、生まれた場所。そんなところをうまく組み合わせ、はじき出しつなげている。あまりにもオープンな部屋はそこにしか生まれなかった可能性を感じる。


花博

GA を読んでいて思った。 今のこの世界中で建設されている新しい建築の潮流は、過去日本で開かれた花博に通じている。 あの時、リベスキンドやモーフォシス、ヒンメルブラウ、ハディト、、が日本にフォリーを作った。 あの時から比べると、創るものは大きくなっているけれど、その底辺に流れているものは変わっていない。 ブラウは、立ち上がり動こうとする建築を。 モーフォシスは、環境とともに変化しリサイクルしていく建築を。 リベスキンドは、表が裏になり光が交錯し、戸惑いの中にいるものを。 ザハは、場所を解体しそれが浮遊し、さながらどこからか漂着してきたものであるかのように。 ラペーニャは、底抜けに明るく、フォリーさえもまるでスペインの光の中にあるように。 そして静かな耳は、小さなささやき声を聞き続ける。 また、自然のものから生み出されたものは、そこに帰る。 そんなものたちが、無造作に花博会場の中に置いてあった。 そんなふうに創っていた者達は、変わることなく、その中に根ざしたものを追いかけ続けているように見える。 あの15年近い前に見、そして作者たちから聞いた生の声は通訳者を通してだが、中に残っている。 建築家だとか、設計者だとか、作家だとか、技術者だとか、デザイナーだとか、そんなものは関係ないのだろう。 その中に潜み垣間見える、そういったものたちが、生み出されたものに見えるか、または感じられるかが創造するということには、大切なことのように思う。 よくも悪くもそれを評価するものは様々だから。 それをどこかに感じさせるものをつくり、また感じ続けることが大切なことだと思う。

曾我部邸

雑誌で曾我部邸を見る。その創り方はアトリエワンのそれに通ずるものを感じる。けれど、それが現れるさまは全く違う見え方になっている。かたや木造、かたや鉄骨だけれども、その内部の空間はとても似ている。現れている材料は違うけれど、その空間は同じに見える。ただ、その構成の成り立ちは、地面の中から始まり天に通じるところまで、曾我部邸の方により素直さと、自然さを感じる。工業的なものとハンドメイドなものの違いはどこで線が引けるのか、建築に限って言えばとてもわかりにくい。全てはハンドメイドでもあるし工業的でもあるからだ。材料の質でそれが片付けられるなら、簡単なことだろうが、そうともいえない。    ある意味建設は資金を伴い、プアな部分が見えてくる。創造はそれをごまかし、昇華させることができる。  多くの建築家の自邸はそれとの戦いの歴史でもあり、その解釈と表現との戦いでもある。どこでそのリミットを越え、スイッチが変わるのか、とても興味深い。心の琴線に触れるところの境界はどこなのだろうか。あまりに饒舌な中にはそのプアさを感じるところだ。表現というものは、どこかその当たりが、空間を通して伝わってくるもののように感じる。

HOUSE A 西沢立衛

前回に雑誌でみた森山邸では、分散させていく流れはわかるものの、デザインに違和感を感じていたのだけれど、今回の住宅では、その近隣も気にすることもなく、丁寧に組み立てられた思考の後を感じることができ、この作家の力をより感じた。これまでのSANAAでのつくり方は実験的な面を強くて感じて、実際に見たものでもひどいものがあった。学会賞というものが何を基準につくられているのかがわからなくなるほどに。

■作品名 森山邸

■所在地 東京都 ■主要用途 専用住宅+賃貸住宅 ■設計 西沢立衛建築設計事務所 ■施工 平成建設 http://www.japan-architect.co.jp/japanese/2maga/sk/magazine/sk2006/sk02/work/06.html セジマさんの住宅ににてるんだよな

「岐阜県立飛騨牛記念館」北川原温

設計者:北川原温建築都市研究所 所在地:岐阜県清見村牧ケ洞4393-1 主用途:展示場 竣工:2002年


セジマさんの住宅   梅林の家

道路と平行でない斜めの壁がきになります。

建築雑誌を見ていて気になった住宅があります。 どうしたらこんなプランになるのかがあまりよくわからない。たいていの住宅はなんとなくわかるのですが、この住宅はわからなかった。 他の人はどうみるのかなぁと思ってきいてみました。K氏(よく住宅の設計をしている):(プランをみて)わからん。ぜんぜんわからん。別のK氏(よく住宅の設計をしている):(プランをみて)よくわからないなぁ。回り階段とか怖いし。。。。、洗濯機はどこに置くの?

 なんで壁が平面計画上微妙に斜めになるのか。とか、全体のボリュームに比べて各個室が、えらい小さいとか。眺めながらいろいろ思う(感じる)のですが、小さな部屋は吹抜の空間で大きな部屋につながっていたりする。んーなるほど、うまいなぁ。 壁が斜めなのはどっちでもいいといえばいいのでしょうが、そうすることが自然に感じないからどっちでもいいとは思えません。どんどんはまります。

この住宅は外壁も内壁も鉄板でできていて、壁厚が普通じゃない。16mmの鉄板です。構造も普通じゃない。。で、プランもやっぱ普通に見えない。ベッドに入るのにベッドの上を歩くことになる。  両氏の話では「住宅は可変性のあるものなので、それを考えた設計をしなきゃ。」ということでした。この住宅をみてると、可変性がないように見えていたのですが、3階の部屋を子供部屋にしてみるということも可能で、吹抜を部屋にもできるのかなぁ、とかも考えたりしてしまいます。部屋がたくさんあって、フリーな部屋が大きいのは意外に可変性をもてるのかもしれません。そして最近のいろんな住宅は、一室空間が多いのに対しこの住宅は空間のつながりは一室だけど、それぞれは小さく壁で区切られているというように、今の流行からはなれています。。。。なんで気になったかがなんとなくわかってきました。 最近の住宅は間仕切りも少なく、なるべくオープンな創り方をしているのではないだろうか。この住宅に最近の住宅にないせせこましさの中につまっている人の感覚を僕は感じていたようです。

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