1949 / 08 / 17 松川事件


1950以前

【1949/08/17 松川事件】

三鷹事件を契機とする国鉄労組の分裂によって日本の労組分裂の波は、大量首切りと
闘う東芝労連にも押しよせた。49年8月8日、福鳥県の東芝松川工場に対する人員整理
の枠が発表され、労組は17目夜明けから24時間ストを予定していた。この日、8月17日
午前3時9分、東北本練の青森発上野行き旅客列車が、福島県金谷川駅から松川駅へ向
かう半径500メートルのS字カーブにさしかがった地点で機関車と客車3両とが脱線転
覆、機関士1人と助士2人が死亡したほか、630人の乗客のうち4人負傷、車掌1人、荷扱
手2人、郵便係員2人が負傷した。レールの継目板がはずされ、枕木の犬釘が大量に抜
かれており、複数の人間による明らかな計画的犯行であった。翌18日、官房長官増田
甲子七は、「今回の事件は今までにない凶悪犯罪である。三鷹事件を始め、その他の
各種事件と思想的底流において同じである」との談話を発表した。これは、まだ何の
調査も行われていなかった段階で、現場から260キロ離れた東京における発言だった。

9月10日になって、19歳の少年赤間勝美が別件の傷害容疑で逮捕され、その自白から、
国鉄労組員10人と東芝松川工場労組員10人が次々と逮捕された。赤間被告を含め全員
が無実を主張したが、50(昭和25)年12月、福島地裁の第一審判決は、「本事件は、
昭和24年7月、共同闘争を行うことになった国鉄労組福島支部、及び東芝松川労組の組
合員である被告らの共同謀議によるもので、その謀議は同年8月13日に国労福島支部事
務所で成立し、同月15日には具体的手順を、翌16日には脱線させる列車を決定した」
ものであり、「さらに事件当日の午前2時頃に現地付近に集合し、列車を転覆させる作
業を行った」として、5人に死刑、5人に無期懲役、残る10人は有期の懲役だった。二
審の仙台高裁では3人が無罪となり、有罪となった17人は最高裁に上告した。判決に疑
問をもった作家広津和郎は、克明な調査をもとに雑誌『中央公論』54年4月号から「松
川裁判批判」を連載したが、これに対し田中耕太郎最高裁長官は、「雑音に耳を傾け
るな」と全国の裁判官に訓示を垂れた。事件から8年経った57(昭和35)年の秋、名古
屋で講演した広津は次のように語っている。『真実は壁を透して』というパンフレッ
ト風の小冊子が送られてくると私はふと封を切ってぺ−ジをめくって見たのです。そ
して読むともなく眼をやっている中に、その文章にひきつけられ始めました。これは
後に世間でわたしたちが甘いと言われた点なんですが、私はこれは嘘では書けない文
章だと感じたわけなのです。そこに引き入れられて全部読み通してみると、どうもこ
の被告諸君は無実だ、としか考えられなくなって来ました。私は宇野浩二にその話を
すると、宇野はすでに読んでいて、自分もあれは酷い事件だ、被告たちの訴えること
が真実ではないかと思っているというのです。そこで会うたびに2人は松川事件につい
て語り合いました(広津和郎--「歪曲と捏造による第二審の判決『事件のうちそ』)。
また、「法廷記録および法廷に提出された証拠の一切を調べても、被告人諸君が松川
事件の犯人であるということを証明しているものは一つもない。むしろ、被告人諸君
がこの事件とは何の開係も無いということを証明しているものばかりである。よく
人は、それならば誰が真犯人か、とわれわれに質問する。それに明確に答えることが
出来れば、人を納得させるに都合がいいということをわれわれは知っているのである
、しかし、残念ながら、今の段階では確実な返答をすることは出来ない。真犯人が誰
であるか、ということを想像させる若干の資料が無いとは云えないが、しかし、それ
は想像させるに止って、決め手であるとは云えない。判決文は想像や臆測によって被
告人諸君を真犯人と認定したことがいかに不当であるか、ということを検討している
のが私の文章である。その私自身が想像で真犯人を推測するなどということは、もと
より避けなければならない」とも広津は云っている。58年(昭和33)年になって、共
同謀議が全く架空のものであることを立証する「諏訪メモ」があることを検察側が故
意に隠していたことが明らかとなった。59(昭和34)年8月、最高裁は原判決破棄、9
月12日、仙台高裁への差し止めを判決した。そして、やり直し裁判の結果、63(昭
和38)年、被告全員の無罪が確定した。松川事件の場合、真犯人が他にいることだけ
は確実である。平間高司と村上義雄の2人は、事件当夜土蔵破りを計画していたがうま
くゆかず、家に帰る途中の午前2時30分ころ転覆現場から足早に立ち去った9人の大柄
な男たちを目撃したことを、差し戻し審で証言した。黒っぽい服装の彼らは手ぶらで
、足音も立てず「異様な雰囲気」だったという⇒映画・『にっぽん泥棒物語』もう1人
の目撃者である佐藤金作は、その夜、通りがかりにレールをはずす男たちを見た。修
理か検査だろうと思って帰宅すると、その中の1人の日本人が跡をつけてきて「口外す
ればアメリカの裁判にかけられる」と脅した。5日後、CIC福島事務所に出頭するよ
う見知らぬ男に告げられた。恐怖にかられた佐藤は、弟のいる横浜に逃げ、三輸車の
運転手をして身を隠したが、2カ月後の1950(昭和25)年1月12日に行方不明になり、4
0日後水死休で発見された。知らせで弟が駆けつけたが,既に警察により遺体は火葬に
付されていた。警察は事故死として処理したが、 『日本の黒い霧』でこの3事件を追
跡した社会派推理作家松本清張は、「大きな政策の転換は容易ではない。それにふさ
わしい雰囲気をつくらねばならない。そのための工作が一連の不思議な事件となって
現われたのだと思う」と記している。

3事件とも真実(真犯人)は、今もって明らかではないが、共産党員や労組員が全く関
係ないのに犯人にデッチ上げられたことだけは確かである。この謀略により共産党は
国民の支持を失い、労働運動は力を奪われた。その結果、49(昭和24)年6月から1年
間で約100万人の労働者が職場を追われ、権力の大量首切りは成功することになり、レ
ッドパージへの道が開かれた。

残された問題
この判決が被告の無罪を証明しても、遂に事件の真相を追究し得なかったことや、今
後の「真犯人」の追求の問題、また12年もの間被告の青春を奪い取った責任問題など
幾多の課題が残されているが、私がそれについて言いたいのは…、被告たちを一歩間
違えば絞首刑台にでも送りかねなかった捜査当局、とくに玉川警視、武田巡査部長の
取調べ方である。と同時に、彼らが一、二審および差戻し審で述べた偽証行為である
。これにつづいては、捜査当局の意に迎合して真実の証言を曲げた証人や参考人の供
述である。

この際これらを徹底的に追究すべきである。それを追求することが、今後の「裁判」
を明るくする最も早い近道ではなかろうか。それにしても、この判決に至るまでの広
津和郎氏の8年間の努力は、どのように評価しても、しすぎるこいはない。氏の努力が
なかったら、これほどの世論は起きなかった。たとえ別の運動があっても、世問はそ
れを政治なものと解して関心を示さなかったと思う。広津氏の情熱的な正義感が世間
の膨大な眼を松川裁判に向けさせたのである。 (松本清張『日本の黒い霧』452頁)

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