1949 / 07 / 15 三鷹事件


1950以前

【1949/07/15 三鷹事件】

昭和24(1949)年7月15日午後9時23分 (当時は夏時間制。現在の午後8時23分)
三鷹駅構内の電車区引込線から7両編成の無人電車が暴走。
構内のストッパーを突破し、駅前交番を粉砕、道路を横切って商店街に突っ込み
大惨事になった。
この突発事件のために、降車客6人が車両の下敷となり即死している

1949年に入り新聞各紙は、列車妨害事件をしきりに報道していた。
49年7月7日付「朝日新聞』は1日から6日正牛までの6日間に東京鉄道局管内で
発見された列車妨害事件は、小石などの練路妨害28、投石27、発砲(空気銃)3、
器具盗難2、その他14、合計73件にのぼると報している。
49年7月15日午後9時24分、国鉄中央線三鷹駅構内で無人電車が突如車庫から走り出し、
駅改札口と階段をぶち抜いて駅前の交番を全壊させて民家へ突入、6人の市民が死亡、
重軽揚者は20余人にのぼった。
新聞は、「国鉄八王子管理部では、整理に反対して辞令返上闘争を続けている
三鷹電車区労組員の一部策動分子が故意に起こした事件ではないかと見て中川公安係長
以下15名の鉄道公安官を急派し調査中」と報じた。
事件の翌日、吉田首相は、「定員法によるかく首がもたらした社会不安は、主として
共産主義者の煽動による」との声明を発表した。
事件の翌々日から国鉄労組内の共産党員20人近くが次々と逮捕され、三鷹事件は共産党
の破壊活動であると宣伝された。

吉田首相は長文の声明を出し、共産党は、虚偽とテロを戦法に社会不安を煽るとし、
「人員整理は国家再建のために必要だ」と強調した。
7月18日、国鉄当局は国鉄労組中央闘争委員14人と中央委員45人の免職を発令、これに
よって共産党は労組内の主導権を失い、国鉄労紺は分裂状態に追い込まれ、7月21日、
総数9万4000人の国鉄大量人員整理は完了した。
三鷹事件は9人の共産党員と党員でない竹内景助の10人が共謀、犯行におよんだとして
起訴されたが、裁判の過程で、架空の自白を誘導・強要した検察の取り調べが明らか
となり、共産党員9人のアリバイも明確となった。
GHQの命令によって最高裁判所が介入しようとしたが、東京地裁鈴木忠五裁判長は
司法の独立を守るとしてこれを拒否するという一幕もあった。
50(昭和25)年8月の第一審判決は、「被告人らの共謀による犯行であるとする
公訴事実は、いわば全く実体のない空中楼閣であった」とし、犯行は竹内1人に
よるものだと判断、竹内に無期懲役、9人に無罪の判決を下した。
51(昭和26)年3月東京高裁の第2審は1回の事実審理もないままに無実を主張する
竹内に死刑を宣言した。
55(昭和30)年、最高裁は8対7で死刑を確定した。
竹内被告は無実を主張、再審を請求したが認められないまま獄死した。

http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/index.html
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