森の木(アーチャン・チャーのたとえの集大成)の翻訳
英文原本(第1部):http://what-buddha-taught.net/Books/Ajahn_Chah_A_Tree_in_the_Forest_Part_1.htm
英文原本(第2部):http://what-buddha-taught.net/Books/Ajahn_Chah_A_Tree_in_the_Forest_Part_2.htm
原本はタイ語であり、それを英語経由で日本語に意訳しています。
「ダンマ(法)を語るにはこんな風に喩えを使ったりする必要があるんだ、形がないからね。 ダンマって四角いのかな、それとも丸いかな? そんなこと言えないでしょう。 ダンマについて語るにはこんな喩えでやるしかないんだよ。」
本当の家がないときには、私たちは道を行く当てのない旅人で、 こっちの道をちょっと行ってみて、こんどはあの道にちょっと。 少々立ち止まってみては、また歩き始める。
自分の本当の家に帰るまでは、私たちは落ち着かない。ちょうど自分の村を出て旅へ出た人のようである。ただ彼が家に帰ったときにのみ、本当にリラックスして、落ち着いていることができる。
世界のどこにあってもそのような本当の平和は見つからない。
それが世界というものである。自らの内面を見てその平和を見つけるのである。
ブッダのことを思い、彼がどれほど真実に沿って語ったかを思うとき、 私たちはかれが崇拝や尊敬に値することを感じる。 ある事柄についての真理を見るときに、そこに彼の教えを見る実際にはまったくダンマを実践していなくてもである。
しかし我々が教えのことを知り、それを学び、実践したからといって、真実を見ることができるわけではない。そして我々はまた当てもない旅人のように宿無しでいる。
世界の物事をバナナの皮みたいに、君にとって大した価値のないものだと見てみるときに、 生じては去っていくいろんなものすべて、それが心地よいものでもイヤなものでも、そういった物事によって、 動揺したり、困ったり、傷ついたりといった影響なしに、自由に歩くことができるようになる。 これが君を自由へと導く道なんだ。
身体と心の両方とも常に生じては滅している。常なる混乱状態に条件付けられている。 この真実がちゃんと見えない理由は、われわれが真実でないことを信じていることにある。
それは盲目の人に案内されているようなものだ。その人の案内で、どうやって安全に旅ができる? 目の見えない人は、われわれを森や茂みに連れていってしまうだけだ。見えないのに、われわれを導くことがどうやってできるというんだ。 これと同じように、われわれの心は条件付けによって汚れている。幸福を求めては苦しみをつくり、平和を求めては困難を作る。
そのような心は問題と苦しみをつくり出すだけだ。 本当は、われわれは苦と困難から抜け出したいが、その代わりにまさしくそういったものを作り出している。われわれができることは不平を言うぐらいしかない。
われわれは悪い原因を作るが、そうしてしまう理由は、見た目と条件付けについて真実を知らないがゆえ、それにしがみついてしまうからだ。
われわれは実践のことを、医者が渡した薬を呑もうとしない患者で喩えられます。ビンには詳しい説明書がついているのに、患者のすることといえば、それを読むだけで、実際には薬を呑まないのです。 そして彼が死ぬ前に、医者は何の役にも立たなかったと文句を言います。薬は彼を治してくれなかったと。患者は医者のことを藪医者だとか、薬は価値がないものだとか思うでしょうが、実際にしたことと言えば、薬を呑む代わりに、ビンをよく見て、その服用方法を読んだだけです。 もし医者の忠告に従って、薬を処方どおりに定期的に摂っていたなら、回復したでしょうに。
医者は身体から病気を除くために、薬を処方します。ブッダの教えは心の病を癒し、自然な健康状態に戻すために処方されます。そういうわけで、ブッダは、われわれが例外なく心の中に見つける病を癒す医者だと考えられます。これらの心の病を自分の中にみるとき、法をより所とし、病を癒す薬としてみるのは意味あることではないでしょうか。
何度も心の本質を熟視するとき、この心というのはただあるがままなのであって、他のようでは有り得ないということが分かるようになってきます。心のやり方というのは、ただ、それがあるようにあるだけだというのを知るでしょう。それが心の本質なのです。このことがはっきりと分かったなら、考えや感情から離れることができます。そして、常に自分自身に「それがあるようにある*1」と言い聞かせているなら、余分な何事も付け加えたりはしないでしょう。心が本当に理解したなら、それはすべてを手放します。考えや感情はまだそこにあるでしょうが、まさにその考えや感情は力を失ってしまうでしょう。
それは、初めのうち、われわれを悩ませるようなやり方で遊んで欲しがる子供が、あまりにもひどいので、叱ったり叩いたりする必要があったようなものです。しかし、後には、子供がそのように遊んだり、行動したりするのは自然なことなのだと分かり、放っておくようになります。手放してしまい、われわれの悩みは終わります。なぜ終わったのでしょうか? なぜなら、今や子供の自然なやり方というのを受入れたからです。われわれの見方が変わり、物事の本当の本質を受入れるようになったからです。手放すならば、心はもっと平和になります。そのとき正しい理解があるのです。
「教えなんていうのは全部が単なる喩えでしかないんだ。 ただ、心にとっては真実を見る助けになるんだ。」
ブッダの教えはわれわれが問題を解決するための助けとなるが、 まずは自分で実践し、智慧を開発しなければならない。
それは、ご飯が欲しいときに米を炊くようなものである。
まず、火を起こす。水が沸くまで待つ。そして米が炊き上がるまで調理する。
水の入ったポットに米を放り込んで、すぐにご飯ができた、なんてことにはならない。
サマタ(静寂瞑想)とヴィパッサナー(洞察瞑想)を分けることはできない。 サマタは鎮まることであり、ヴィパッサナーは熟視である。
熟視するためには、鎮まっている必要があるし、 鎮まっているためには、精神を知るために熟視している必要がある。
それらを分けようと欲するのは、 丸太の中ほどをつかんで持ち上げたとき、 片方の端だけが上がってきて欲しいと願うようなものだ。
両方の端が同時に上がってくる。 それを分けることはできない。 われわれの実践においては、サマタとかヴィパッサナーとかしゃべるのは不要である。 ただ、ダンマ(法)の実践といえばよくて、それで十分である。
悟りとは仏像のように死んでいることを意味しません。 悟った人もまだ思考はします。ですが、思考のプロセスが無常であり、不満足なものであり、空であることを知っています。
実践を通して、われわれにはこれらのことがはっきりと見えてきます。 われわれは苦(不満足性)というものを探索して、その原因を止める必要があります。 そうしなければ、智慧が顕れることは有り得ません。 われわれは、物事をあるがままに正確に見ないといけません
― 感情は、ただ、感情であり、思考は、ただ、思考です。
これがわれわれのすべての問題を終わらせる道です。
肉体がずっと永い間、続いてもらいたいと、 どれだけ思ったとしても、そうは行きません。
そのようにあって欲しいと願うのは、 アヒルがニワトリになって欲しいと願うのと同じく、 愚かなことです。
そう願うことが不可能であると分かり、 アヒルはアヒルでしかなく、ニワトリはニワトリでしかなく、 肉体は肉体でしかなく、そして老いて死すものだと分かったときに、 肉体の変化に直面するために必要な強さとエネルギーを見出します。
人が私のところへ来て、こう尋ねます。 無常・苦・無我を知るに至った人は、ものごとをすることを全く諦めてしまって、 怠惰になるのではないかと。
そうではないと私は彼らに言います。 それは反対で、もっと勤勉になりますが、ものごとを執着なしに、 有益なことのみを行うようになりますと。
それから、彼らは言います。
「もしみんながダンマ(法・教え)を実践したなら、 世界では何もなされなくなってしまい、 なにも進歩がなくなるでしょう。 もしみんなが悟ったならば、誰も子供を持たないだろうし、 人間というのは消えてしまいます。」
しかし、これはミミズが土がなくなる心配をするようなものなんですよ?
誤った見解をもった人は、瞑想を盗人のように実践します。 というのは、捉えられては、トラブルから抜け出るために、 賢い弁護士を雇うようなことをするからです。
でも、いったん、トラブルから抜け出たなら、また盗みを始めるのです。
あるいは、かれらは、打たれやすいボクサーのようです。 傷を治し、そしてまた新たな傷を作るだけの闘いに戻っていきます。 そして、このサイクルが終わりなく続いていきます。
瞑想の目的は、単にわれわれ自身を時々なだめたり、トラブルから抜け出すだけのものではありません。 それは、そもそもわれわれを落ち着かせない原因を見て、それを根こそぎ取り除くことです。