ブッダの語った業


ブッダダーサ(タイ語でプッタタート)比丘

ブッダの語った業(Kamma in Buddhism)

元のサイト

todo:

  • 若干、訳が粗く、後半は見直す必要がある。(2009/04/02)
  • 元とした英文ページへのリンクが切れていたので、探して付け直す必要がある。(2009/04/02)

【仏教徒としては、カンマ(行為と行為の結果)を仏教で説明している通りに理解しなければなりません】

〜 As Buddhists, we must understand kamma (action and the result of action) as it is explained in Buddhism. 〜

われわれは、盲目的に他の宗教でのカンマの教えに従うべきではありません。そこを明確にしないと、カンマに従い、哀れにも廻り続けるだけで、カンマの影響から抜け出すことができず、それを終わらせることも実現できないでしょう。

【カンマの本質を知る必要があるのは、なぜでしょう】

〜 Why do we need to know the essence of Kamma? 〜

なぜなら、われわれの命はカンマと不可分であり、カンマに従い、起こっているものだからです。より正確に言うなら、人生は実際、カンマの流れなのです。行為(カンマ)を行う欲望により、人は行為をして、そしてその結果を受け取ります。そして、行為を行う欲望は、終わることなく、何度も何度も起こってきます。そこから見ると、人生とはカンマのパターンに過ぎないのです。もし、われわれがカンマを正しく理解するなら、人生を平和に導くことができ、どんな悩みも苦しみもなくなります。

【大まかに2つのカンマについての教えがあります】

〜 There are two primary kamma doctrines. 〜

1つは、ブッダの時代より以前から教え告がれ、今もまた、仏教外で教えられているものです。 もう1つは、カンマについてのブッダの教えです。 1つめに挙げた教えは、物語の半面を語ります。その教えでは、人はカンマを克服できず、いつもその支配下に留まります。そこで、人は実際にカンマの影響下にいることを望み、その助けを当てにし、自分自身の自由のために闘おうとはまったくしません。そのようにして、カンマを積み重ねることは、あたかも、もっと満足のいく再生を求めるかのようです。カンマを終わらせようとは決して考えません。終わらせようとする代わりに、それに依存したいのです。 仏教においては、われわれはカンマを征服し、そこから解放されるような、つまり、これ以上、カンマという重荷を運ばないという境地にまで、カンマを理解することができます。 われわれはそれが起こるのを座って待つでもなく、運を天に任せるでもなく、聖なる川でカンマを清めることができるというような迷信に従うこともないわけです。

【カンマを超えること】

〜 To be beyond kamma 〜

これは大抵の人たちには、信じられないことのようです。そんなことは、詐欺かセールスマンの誤魔化しみたいに取られるでしょう。にもかかわらず、もしわれわれが真実の、聖なる友人として、ブッダを迎えるならば、それは現実に可能なのです。このことは、われわれが「十善」という完全なセットを実践することを助けます。それは、八正道と正しい洞察の智慧と、此縁性(生滅の縁起・idappaccayata)に沿った正しい解脱です。そのような実践には、カンマの様々な結果を期待してしまうような欲望へとつながる、ひとを欺く感覚は存在しません。 南インドのグルや、ブッダの同時代者は、ブッダがカンマの終焉を教えた、と聞きました。 彼は弟子を遣いにやって、ブッダに対して質問をし、彼の指示を仰ぎました。この有名な話は、パーリ経典のクッダカ・ニカーヤにある Solasapanha, Parayanavaggaで伝えられています。 多くの人々がこの物語にあるブッダの答えを学び、研究対象としたり、実践したりしています。


【昨今、カンマに関する間違った教え】

〜 Nowadays, wrong teachings concerning kamma 〜

が、様々なインドや西洋の作家により、「業と再生」のようなタイトルで出版されています。それらは仏教の名前で公にされているにもかかわらず、実際は、ヒンドゥーイズムのなかでのカンマと再生に対する理解です。仏教の正しい教えは、誤解され、伝えられています。仏教の業論を歪めずに守るために、これは、認識され、訂正されねばなりません。 仏陀は、当時の彼の教えとは別で行われていた、善悪の行為とその結果についての、ほぼ形となっていた教えを、正しい ― 間違っている訳ではない ― ものとして認めました。ただ、そこに最後に付け加えたものは、カンマの終焉であり、それが、仏教の教えの本質的な部分をなし、カンマの教えは完成されたのです。 このカンマの終焉は2通りの呼ばれ方で流通しています。「3種のカンマ」。なぜなら、善い行為、悪い好意、そして善いも悪いも両方とも終焉に導くカンマがあるからです。時には、4種のカンマに区分けされることもあります。善い、悪い、混ざった、そしてすべてのカンマの終わりとなるカンマです。 この4種に数え上げられた場合、仏教で付け加えて教えられたカンマは4番目の種類のカンマとなります。 しかしながら、もし「善悪混ざった」カンマを善いか悪いかのどちらかに分けてしまうならば、「すべてのカンマを終わらせるカンマ」が3番目に来る、3種類のカンマだけになります。 この3種類の公式は易しく、扱いやすく、簡潔です。3番目のカンマが置いていかれるなら、真の仏教が教えるカンマの本質が無くなります。

【カンマと再生】

〜 Kamma and Rebirth 〜

再生は、行為をした度に起きているのです。そしてその再生は、行為をしたまさにその瞬間に起きているのです。 世間一般で理解されているような、死のあとに来るであろう再生を待つ必要はありません。人が考え、行為するとき、心は同時に欲望と執着の力により変化します。 それは、縁起の法則(パティッチャ・サムッパダー)にのっとり、生成と誕生へと続きます。 再生が起こるのに、肉体的な死まで待つ必要はありません。この真実は、仏教の中の本当の教えとして、再生するべき我(アッター)は無い、としている、元々のまっさらな仏教の、中核となる原則として、認識されるべきです。 死のあとの再生という概念がどのように仏教にもぐりこんだか。 これは説明するのは難しく、それに首を突っ込む必要もないでしょう。 ただ、縁起の流れの中で、再生を食い止めるだけで、我々が自由になるのには、十分なのです。 自我から来る再生を止めることが真に仏教に沿ったことであり、そのような行為が、避難所として言ってもいい種類の行為なのです。

善い行為がなされれば、善いことが同時に起きます。
悪い行為がなされれば、悪いことが同時に起きます。

それ以上、何も結果を待つ必要はありません。

もし死後に何らかの誕生があるならば、その再生は、この生において行ったカンマにもとづき起こるだけであって、ここですでに起こったことの結果であるのです。 我々は、実践を妨げるような再生について、心配する必要はありません。

【カンマの果を受ける】

〜 Receiving the Fruits of Kamma 〜

われわれは、ある行為を行う心が、カンマそのものであり、それに続く心が、そのカンマの結果であること見るべきです。 それに続く他の結果は、ただ不確かな副産物です。というのは、それは起こったかも知れないし、起こらなかったのかも知れない、また、他のさえぎる要素により、われわれの思い通りにはならなかったのかもしれないのです。

生まれ変わる「自我」や「魂」は存在しないという、ブッダの教えの原則、これはケーヴァッタ経に述べられている、からすると、行為を行う心に続く結果というものが、もっとも確かなものです。

魂や誰かが再生するという見解を持つことは、無我の真実に矛盾します。善い行いや悪い行いが為されたときにはいつでも、その後の結果を待つことなく、善や悪が同時に起こります。

とはいうものの、大抵の人々は自分の願いに沿ったある結果が起こることを期待します。そして、他の要素がそれを妨げると、失望するのです。そのように環境から妨げられたりすると、善い行いをしても、悪い結果だし、悪い行いをしても善い結果がもたらされるという、間違った見解を持つようになります。

われわれは、この悪い見解に気をつけねばならず、カンマの果について正しい理解を養わなければなりません。

どのようにカンマの結果を受けるかという、われわれの理解は、いつも自明のものであり、即座のものであり、探索に誘うものであり、人間の生命である、5つの塊(五蘊)が「『私』ではない」という真実に、決して矛盾することはないのです。

心というのは、条件によって、あっちこっちに突き動かされるものに過ぎません。環境的な要因により、物事をするように刺激されます。

結果として実る反応は、ある人が満足か不満かという感覚に基づき、良いとみなされたり、悪いとみなされたりします。

どちらにしても、われわれは悩みへと追いやられます。このようなので、われわれはカンマを終わらせ、それを超えることを目指すべきなのです。そうすれば、われわれは、実現し、目覚め、完全に果を得るでしょう。それが真正のブッダとなること(仏性)です。

【道徳的なカンマの教えがあります】

〜 There is a moralistic teaching of kamma 〜

これやあれやを所持しているという、自我の幻想を保留しておく立場を取る、道徳的なカンマの教えがあります。このバージョンは、ブッダにより強調された無我の原則と矛盾します。われわれは、この見方を正しく理解しなくてはなりません。(便宜的な見方であると)理解しなければ、われわれは、カンマを超えることができないので、カンマの教えを実践することによる恩恵(利益)を得る事ができないのです。 ずっと終わりなく続く業(カンマ)の影響化に留まること、それは仏教が教える「カンマの教え」ではないのです。 そうではなくて、すべてのカンマを終わらせるためのカンマを懸命に行うわけです。 このことにより、自分でも意識しないうちに、迷宮に入り込んでしまう事態を避けられます。

【行為とその反響】

〜 Activity & Reactivity 〜

感覚を持つ存在が為す行為や動作、これが意欲を以って為された場合、特に渇愛や煩悩から起こってきた場合に、カンマと呼ばれます。

煩悩により起こされたのではない行為は、例えば、阿羅漢の意図による行為は、カンマとは呼ばれません。それはキリヤ(kiriya 行為)と呼ばれます。キリヤの結果はパティキリヤ(patikiriya 反響)と呼ばれます。それに対し、カンマの結果は、ヴィパカ(行為の果)です。

これらの結果は、ただ、自然法則にのっとり起こります。

普通の人々は普通の意欲(チェータナ 心所)を、その行為の原因として持ち、それはカンマに続きます。 善い意欲は善い行為に続き、悪い意欲は悪い好意に続きます。道徳的、文化的な訓練を通し、人々は、他人に迷惑をかけずに、すべての人に善い結果をもたらす善い行いをするようにと教えられます。それなので、カンマ(論)は自然法則を考慮したものであり、科学的なものです。


【カンマの型】

〜 Types of Kamma 〜

行為と、その行為者の特徴により、多くのカンマの型があります。 ある者は、自分がそうありたいという欲望を元にした、自己中心主義で行動します。 ある者は、自己という幻覚を終わらせ、平和(ニッバーナ)を実現するための行動を行います。 ある者は、世間的な富に喜び、またある者は天界の富に喜び、またある者は、平和(ニッバーナ)の実現に喜びます。このようなので、同時に成り立ち得ないように見えるのは、いつものことです。 善い行為を公に見せびらかすのを好むものがあり、また秘密のうちに善い行為を為すものがあります。善行為を賞賛してくれることを欲するものがあり、そういった賞賛を必要としないものがあります。 大層な儀式で行為を行うものがあり、そのような儀式をまったくなしで行為をするものがあります。魔術的な迷信的な恐れから行為するものがあり、仏教の実践として当たり前に行為するものがあります。当然、たくさんのカンマの型が出てくるわけです。 とは言え、それらはすべて2つのカテゴリーに分けられます。自我と共にあり、自我のために行うもの。自我への執着や自己中心性を終わらせるために行うもの。最大の利益を求めて、ビジネスのようなやり方で、行為を行うものがあります。別の人々は、生と死の悪循環を終わらせるのを望んで行います。自分自身を見てください! 普通の人々は、ただ飽くなき利益追求のためだけに、善い行いをしてしまうものです。

【カンマと無我】

〜 Kamma and Not-Self 〜

カンマと無我の問題は、様々な理由で、混乱しやすく、理解しがたいものです。ある比丘がかつてブッダに質問しました。

「無我によってなされたカンマが、どのようにして、自我に結果を返してきますか」。

この質問は、無我の教えが示している「行為するもの」は「自我」がない精神−身体の作用に過ぎない、というところから、出て来ています。自我というものでない精神−身体により行為(カンマ)が為された後で、その行いを意図的に行なった「行為するもの」である「自我」に結果を返すことができるのか。無我という新しい概念は、自我という古い概念と矛盾します。

無我を主張する自我があり、無我の名において行為をしますが、その行為の結果を受け取る自我の感覚はいまだに存在しているのです。

そこで、この比丘の質問となるわけです。

もし正しく見るならば、「精神−身体」が無我であるとき、その行為の結果も、自我のない「精神−身体」に起こるものだということを理解するでしょう。

しかし、もしその「精神−身体」が自我の感覚に満たされていれば、その行為の結果もいつもこの「見せ掛けの自我」に対して起こるわけです。

If kamma is not-self, its result will be not-self, and what occurs in accordance with kamma will be not-self. 

もし、カンマが無我であるなら、その結果が無我でしょう、そしてカンマに依って起こることは、無我でしょう。

The things, whether human or animal, that we conventionally speak of as "actors (doers of kamma)" will also be not-self. The facts of kamma and not-self are never separate and never oppose each other.

通常「行為するもの(カンマの行為者)」と呼んできたものは、それが人間であれ動物であれ、無我でしょう。カンマと無我の事実は、決して分けられるものでなく、お互い対立するものでもないのです。

【カンマの終焉はニッバーナと同じことです】

〜 The ending of kamma is the same thing as Nibbana,  〜

カンマの終焉はニッバーナと同じことです。別の言葉で言えば、カンマの終焉は、ニッバーナと同義です。どこから、それならば、死がカンマの終焉だと人々に教える教師が来るのでしょうか。誰かが死んだとき、人々はつぶやきます。「あー、かれのカンマは終わった」。

Moreover, they often say that one dies according to ones merits and kamma,  without realizing that what is happening to them now is also according to their good and bad kamma, until they really reach the end of kamma, namely, Nibbana.
(ここの訳はうまく行っていません)

更には、人は、善業とカンマ(訳注:悪業の意か?)に依って、死ぬこととなるとよく言ったりします。 (そう言っている)彼らに今まさしく起こっていること、それ自体も、彼らの善悪のカンマに依るものであると自覚することなしに。 それは、完全にカンマが終焉する ― ニッバーナ ― まで続きます。

【ニッバーナはカンマとその結果からの自由です】

〜 Nibbana is freedom from kamma and its results.  〜

さらにいえば、ニッバーナは、カンマに従い、回り続けるサンサーラの悪循環(循環する存在)からの自由です。ニッバーナは、そういうわけで、愛すべきで愛することのできるものです。少なくとも怖いものではありません。そうであっても、人々は、特に彼らの煩悩の結果として欲望するカンマに従い、生と死の悪循環に捉われ続けることを選びます。

Those who have big egos will normally hate and fear the end of kamma because ego-self desires kamma-results that appear lovely according to its viewpoint.

大きな自我を持つものは、普通、カンマの終焉を嫌がり、怖がります。なぜなら、エゴは自分の観点によって、カンマの結果を好ましいものと捉えるからです。

【カンマは執着(ウパーディ)であり重荷である】

〜 Kamma is attachment (upadhi) or burden. 〜

When one performs kamma, life happens according to kamma, that is, one is bound by kamma no matter whether it is good or evil kamma.

人がカンマを行うとき、生はカンマに依って起き、いうなれば、それが善いものであれ、悪しきものであれ、カンマに動かされます。

Good kamma makes one laugh and bad kamma makes one cry, but both weary us almost to death. Even so, people still like to laugh, since they misunderstand that good kamma is great virtue.

善いカンマは人を笑わせ、悪いカンマは人を泣かせます。 しかし、両方ともわれわれを死にそうに疲れさせます。それであっても、人々は笑いたがるのです、彼らが善いカンマは偉大な徳だと勘違いしているからです。

カンマが我々の人生を縛り付けていないとき、それは足に鎖が巻き付いていないのと同じことです。鉄の鎖であるか、ダイアモンドで飾られた黄金の鎖であるか知りませんが。

人生は、カンマにより重くなったときに、重荷となり、 われわれはそれを運び、支えなくてはなりません。

カンマの終焉はわれわれの人生を軽く自由なものにします。しかし、アッター(自我)のベールに覆われているために、本当に少しの人しかこれを評価しないのです。


【結論として】

〜 In conclusion 〜

結論として、仏教徒として、カンマを終わらせるカンマのみを行おうとしてみましょう。

われわれがカンマが人生を支配しているのを見るとき、われわれは修練するために立ち上がり、改善し、善悪両方のカンマを超えて勝利を修めるべく、あらゆる可能な方法で闘いましょう。そのようにして、だれも、われわれの精神を抑圧することがなくなるでしょう。

清らかで、明るく、穏やかな心を養いましょう、どんなカンマもどんな結果にも邪魔をされないような。昨今、ほとんどの人たちが、カンマを何か悪いものや、望ましくないものと理解しています。これは、善悪両方のカンマとも極悪だ、それが生と死の終わることのない悪循環を生んでしまうという意味においては、正しいといえます。

【仏教における業】

〜 Kamma in Buddhism 〜

仏教におけるカンマ(業)とは、すべてのカンマの終焉に導くカンマ(行為)であり、人生がカンマから何の影響も受けなくなるように。despicableからはほど遠く、それは理解して人生全体に組み込むべきものです。 「カンマの影響がない人生」が実現され、到達されるべきものです。

モッカバララマ、チャイヤにて 1988年4月7日