小説のために


冒頭でコリン・ウィルソンは1974年春にラトガース大学で創作コースの授業をした当時のことを振り返っている。実存主義についての授業をするつもりが、大学へいってみると、創作コースに帰られていた。すでに、学生の登録も十数人いた。彼らは普通の作家ぐらいの非常にうまい文章を書いていた。  ところが、CWは彼らについて連想した言葉は、フォークナーがノーマン・メイラーの世代についての批評だった。「彼らは上手に書くが、何も言うことがない」。CWはこれをきっかけに創作の根本にあるものは何かを考えるようになった。その結論は次のようなものだった。「一人の若い野心的な作家がペンと一枚の紙を前にして座るとき、彼が直面している問題は、ただ単に『何を書くべきか?』ではなくて、『わたしは誰か? わたしは何になりたいか?』ということなのである」。  そして、バーナード・ショーが作家として成功を収めるまでの初期の小説が抱えている問題を指摘しながら、自己像の役割を論じている。ショーは『メシュゼーラへ帰れ』の中で、「芸術派目に見えない夢を目に見えない姿の中に映し出させる魔法の鏡である。人は自分の顔を見るためにガラスの鏡を使い、自分の魂を見るために芸術作品を使うのである」。

 だが、CWの説明は学生たちを十分に納得させるには至らなかったようだ。『小説のために』はある意味で、この学生たちに伝えるべきことを具体化させる作業だった。CWは人類の想像力に対する火山的爆発と地震として、リチャードソン?の『パミラ』とジャン=ジャック・ルソーの『ジュリー、または新エロイーズ』を挙げて、独自の想像力論を構築していくことになる。

ジェラード・ソーム三部作についても触れられている。

外部リンク

道はつづくよ−『指輪物語』の映画と小説とその周辺についてのサイト


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