社史の115ページから


企業情報

初代488-491による、力仁山線?からみの社史

武電の開業により、古来、東京十字橋より中川に向かう中川街道沿いの都市は大きな影響を受けたが、とりわけ危機感を強めたのは、武電の沿線から外れた、鍛冶屋藩以来の城下町、及び力仁山海真寺の門前町として栄えてきた鍛冶町(現鍛冶屋市)である。このため鍛冶町の有力者層の間で鉄道誘致の機運が盛り上がったのは、ごくごく自然なことであった。

まず明治末期に力仁山海真寺の有力信者層の多い嬬久保と力仁山を結ぶことを目的として力仁軌道が嬬窪(現嬬久保)〜総門(現力仁山)〜菅谷間10マイル40チェーン(軌間/2フィート6インチ・動力/蒸気)が開通、欧米ではスチームトラムと称される路面形の蒸気機関車での運行を開始した。また区間運転用としては柴田式軽便蒸気動車も使用している。

その後大正末期、東京十字橋と鍛冶町を最短距離で結ぶことを目的とし、特に当地で天主教団及びその有力信者層が主な出資者となり力仁市街軌道が設立。絹打蕨町〜武電東平駅前〜鍛冶町間9マイル26チェーン(軌間/3フィート6インチ・動力/直流600V)が開業。東京市電よりヨヘロ形、ヨヘシ形計8両の四輪単車を改軌改造のうえ購入して運行を開始。当地天主教団の司教が車内車掌を兼務し、日曜には車内でミサが行われるなど宣教電車としても有名であった。


こうして、昭和初頭には鍛冶町は二つの鉄道路線の恩恵を受けることになったのであるが、力仁軌道と力仁市街軌道の、その歩みは対象的となった。武電の開業により東京十字橋からの鍛冶屋町に向かう人の流れは、旧来の猿渡川の船運を利用した嬬久保経由より、武電を利用した東平経由へと大きく変わり、また、東平が新たに工業地として発達したことに伴い、後発の力仁市街軌道の成績は概ね良好であった。

一方先発の力仁軌道は、その背景にある嬬久保の凋落、及び、路線が鍛治町の中心部を通っていなかったことにより苦しい経営を強いられていたため、その打開策として総門(現力仁山)より、鍛冶町への路線延伸し市街軌道と接続することを計画した。参詣客が素通りされてしまうことを忌避した、待合・茶屋からの反発に合い計画は難航したが、折衷案として市街軌道の鍛冶町から約40メートルほど離れたところに加治町口停留場を設けることで解決を見て、総門(現力仁山)〜加治町口までの0.8kmが計画から四年の後に開業した。しかし、前述の待合・茶屋からの圧力により、市街軌道との接続は全く考慮されなかったため、市街軌道の鍛冶町を下車後、力仁山総門まで徒歩で向かう参詣客が多く、折角の路線延伸も抜本的な乗客増にはつながらなかったようである。


この鍛冶町をめぐる二つの鉄道は、戦時中に周辺の中小バス会社を含め、力仁電気鉄道に統合され、戦後旧力仁軌道の加治町口と力仁市街鉄道の鍛冶町が統合され、鍛治町(新)駅が開業し、名実ともに一体化されたが、運行形態は鍛冶町で二分され、車両、設備そのものは旧態のまま使用していたため、当地では依然旧力仁市街軌道線を街鉄、旧力仁軌道線をキドウと旧来の名称のまま呼ばれていたそうである。

両鉄道を引き継いで誕生した力仁電気鉄道であるが、昭和30年以降に始まるモータリゼーションの進展、及び路線、設備を旧態のままで放置した経営陣の無為無策により業績は年々悪化。昭和40年代には年間輸送量が全盛期の三分の一に落ち込んだ。また、武電乗り入れに絡んだ経営陣の一連の疑獄事件が決定打となり、力仁電気鉄道はついに倒産に至る。

武電は当初路線を赤字が確定的な旧力仁電鉄を引き継ぐことには消極的だったが、沿線後背地を積極的に開発することにより、将来的な資金回収の見込みが立つという見込みのもと、また、武バスが力仁電鉄の引継ぎを表明したことに対する企業防衛の観点から最終的には旧力仁電鉄の路線引継ぎを決定した。


路線引継ぎ後、旧力仁軌道区間の改軌・電化及び随所に残る急曲線区間、及び道路併用区間の専用軌道化等の改修を進めた。また、菅谷〜中央本町間の路線延伸(力仁山新線)、海老ヶ丘にニュータウンを建設するなど、沿線の開発を進める一方で武電路線と平行する絹打蕨町〜東平間及び不採算路線の嬬久保〜力仁山間を廃線するなど路線の整理を行い現在に至るものである。

なお、現在東平車庫で構内入換車として使用されているテキ9形電気機関車は、旧力仁市街軌道の電車を車体更新したもので、旧力仁電鉄車としては現存唯一の存在である。


(欄外補遺※社史の文体はよくわからんので適当です。あと天主教が司教で、基督教が神父でしたっけ。このへんの記憶があやふやなので各自脳内補完をお願いします)