【回答】
一番早いのは楚.
楚では前704年,まだ春秋時代である周の桓王の世に,熊通が周に反抗.
「俺は蛮族だから,周の天下など知らない」
と言って,武王を名乗った(紀元前740年 - 紀元前690年)
前9世紀前半にも,楚の王を名乗った人がいたらしい.
史記秦本紀によると恵文君の4年(前334年),斉と魏の君主が会見して,互いに王号を贈った.
これが斉の威王と魏の恵王.
前325年,秦の君主が王を称する(恵文王)と,魏王は韓の君主と会見して,これも王とした(宣恵王).
前323年,魏・韓・趙・燕・中山国が合従し,みな王を名乗ろうということになった.
それで燕の君主は易王となる.
ただ当時,胡服騎射で有名な武霊王が,趙の君主だったが,武霊王というのは死後の追号で,
「趙には王というほどの実質はない」
といい,国内では王号を用いなかったともいう.
前295年に彼が死ぬと,その息子が国内でも王を称するようになった(恵文王).
…と史記には書いてあるのだがそれは間違いらしい.(なんじゃそりゃ)
斉は同時期の威王(紀元前356年 - 紀元前320年)
「鳴かず飛ばず」の人.